導入
皆さんこんばんは、かいです。
聞いてくれている皆さんの時間を今、分けてくださっている事に、心から感謝しています。
ありがとうございます。
引き続きわたしの所属する教会についてお話しします。
今回も聖典、教会の出版物を参照しています。
さて、前回は1820年の早春、御父と御子がジョセフ・スミス・ジュニアの祈りに耳を傾け、応えてくださったところをお話ししました。
ジョセフ・スミスの選択
御父と御子の示現から我に返ったジョセフは、自分が地面に仰向けに倒れている事に気付きます。
この経験から数日後、ジョセフは地元で盛んに活動をしていたメソジスト派の説教者と出会い、宗教のことについて語りますが、機会を見て自身が経験した示現について話しました。
ですが、彼の対応はジョセフを困惑させます。
『ジョセフ・スミスー歴史』21、22節より引用します。
『〜彼はわたしの話を軽くあしらっただけでなく、ひどく軽蔑した調子で、それは全て悪魔から出たものであって、この時代に示現や啓示のようなものはなく、そのようなものはすべて使徒たちで終わっており、今後決してそのようなものはない、と言った。
しかし、それから間もなく、わたしがその話をしたことが、信仰を告白する人々の間にわたしに対する大きな偏見を引き起こし、ひどい迫害の原因となったことを、わたしは知った。』
第一回目でお話ししましたが、どの教会に加入するべきか答えが出せないでいたジョセフは、悩みながらもややメソジスト派に気持ちが傾いていました。
その宗派の説教者ならば、自分の見た示現を真剣に受け止めてくれると考えたのでしょう。
ですが、その反応は期待したものとは大きく異なっていました。
それどころか、示現を見たと証したことで周囲の人々が若干14歳の少年にあからさまな敵意を向けました。
ジョセフは彼らから憎しみと嘲りの対象とされたのです。
なぜこのような事になったのでしょう?
ジョセフ自身、この事について『なんとも不思議なこと』と述べています。
同じく22節から引用します。
『わたしはたかが14、5歳の名もない少年であり、生活の状況からいっても世の人々の中で取るに足りない少年であったにもかかわらず、地位のある人々は私に目を留めて、一般の人々の心を私に敵対するようにあおり、激しい迫害を引き起こそうとしたのである。これはすべての教派に共通したことで、すべてが連合してわたしを迫害したのであった。』
この時の説教者の行動はある意味では理解できないことではありません。
つい先日まで自分が教えを解いていた少年が突如として『神を見ました』と言ったらどうでしょう?
聖書の中でしか記述されていない示現というものを目の前の少年が経験した、と言い出したらどのような対応を考えるでしょうか?
『それは素晴らしい!君もわたしと共に説教者になってくれ』と言うでしょうか?
この時の説教者がどのくらいの年齢かは記されていないため、あくまでも想像の域は出ませんが、少なくともジョセフより年上であったことは間違いないでしょう。
彼がこれまでに経験したことや、メソジスト派の教会などで学んだことの全てよりも価値があると思われる経験を14歳の少年が積んだとしたら、それを認めるよりも、否定という選択をするのは無理からぬ事なのかも知れません。
それは単に、彼の持つプライドがそうさせたのかも知れませんし、ジョセフの言葉を信じる事ができなかったためなのかもしれません。
啓示は終わったのか?
そして彼は、ジョセフの経験したことを『悪魔から出ている』と断じたのです。
現代においても、『神からの啓示は終わった』という方はいます。
本当にそうでしょうか?
『コリント人への第一の手紙』第12章にはこのように記されています。
『霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。
務めは種々あるが、主は同じである。
働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
各自が御霊の現れを賜っているのは、全体の益になるためである。すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、ひとつの御霊よっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見分ける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。
すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。』
これらは御霊によって与えられる『霊の賜物』であると記されています。
ここでモルモン書にある『ニーファイ第三書』第29章から引用します。
『まことに、主の啓示を否定し、主はもはや啓示や預言、賜物、異言、癒し、聖霊の力によって業を行われることはないと言う者は、災いである。
またその日、利益を得るために、イエス・キリストによって行われる奇跡などないと言う者は、災いである。このように言う者は、キリストの言葉のとおりに、まったく憐れみを受けなかった滅びの子のようになるからである。』
もうひとつ、同じく『モルモン書』第9章より引用します。
『さらに、神の啓示を否定して、啓示はやんでしまった、今は啓示も、預言も、賜物も、癒しも、異言で語ることも、異言の解釈もないと言うあなたがたにわたしは告げる。
見よ、あなたがたに言うが、これらのことを否定する者は、キリストの福音を知らない者、まことに、聖文を読んだことのない者である。
もし読んだことがあれば、聖文を理解していない。
神は昨日も、今日も、とこしえに変わらない御方であり、また神には変化も変化の兆しもないということを読んでいないのか。』
ニーファイ第三書は紀元約34年頃、モルモン書は紀元約401年頃に記されたとされている書物です。
わたしたちの教会では、現代においても神からの啓示や賜物は止んでいないと教えています。
教会を管理する職に召されている大管長には、教会全体に対しての啓示が降ります。
それだけではなく、わたしたち個人も啓示を受けることはできます。
あくまでも『個人が受ける分の啓示』という事ですが、わたしたちは常に啓示を受けられる状態を保つよう、勧められています。
この件については機会を改めてお話しします。
迫害が起きた理由
さて、ジョセフから示現を経験したことを告白された説教者はそれを否定しました。
この説教者が信じなかったのか、あるいはもう一歩踏み込んで考え、信じはしたが認めなかったのか、これは判りません。
いずれにせよ彼はジョセフの言葉を受け入れませんでした。
それどころか、各宗派間で対立していたはずの者たちが同盟したかのように、一斉にジョセフ個人を攻撃し始めたのです。
そして、記録によると『実際に見たものを否定させようとした』そうです。
それでもジョセフ自身は、生涯の最後まで示現を見た事を否定できませんでした。
『たとえ示現を見たといった事で憎まれ、迫害されたとしても、それは真実であった』ためです。
この時のジョセフが経験した迫害について、参照になるかも知れない聖文があります。
『ニーファイ第三書』第11章から引用します。
『まことに、まことに、あなたがたに言う。
争いの心を持つ者はわたしにつく者ではなく、争いの父である悪魔につく者である。
悪魔は互いに怒って争うように人々の心をあおり立てる。
見よ、互いに怒るように人々の心をあおり立てるのはわたしの教義ではない。
このようなことをやめるようにというのが、わたしの教義である。』
示現の話をしても反感を買うだけだと理解したジョセフは、この事を自身のうちに留めるようになりました。
そして、最初の示現のときにジョセフは御子から他にも多くのことを言われたのですが、この時は『それを書くことができない』と記しています。
ただ、将来ジョセフに完全な福音を明らかにすることを約束されました。
ジョセフはその言葉を信じ、満足していました。
さいごに
この経験から約3年後、ジョセフにもう一度大きな転機が訪れます。
次回はそのお話をします。
聞いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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