導入
みなさんこんばんは、かいです!
聴いてくださっているみなさんに感謝しています。
ありがとうございます。
さて、今回は『伝道』についてお話しします。
いつもどおり、聖典や教会の出版物を参照します。
また、わたし個人の見解が含まれる箇所がありますが、それについては教会の公式の発表とは異なることを明言しておきます。
伝道とは
伝道とは、言葉と模範によりイエス・キリストの福音を伝えることをいいます。
言葉で福音を伝えるだけでは不十分です。
伝える者自身がイエス・キリストの弟子として、彼を模範として生活しなければなりません。
それによって、聖霊の影響を受け言葉にも力が加えられます。
言葉で綺麗事を言っていても、行動が伴わなければ無意味です。
『わたしの兄弟たちよ、ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。」
(『ヤコブの手紙』第2章14節〜18節)
イエスは復活されたのち、使徒をはじめとする弟子たちに、『すべての造られたものに福音を宣べ伝える』よう命じられました。
『その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えよ。」』
(『マルコによる福音書』第16章14、15節)
キリストの福音
イエスは世界中の人々に福音を伝えるように命じられています。
彼のこの言葉は現在でも有効です。
未だ『福音を宣べ伝えることをやめるように』という啓示は誰にも下されていないからです。
ではキリストの福音とはどのようなものでしょうか。
福音とは『イエス・キリストの贖罪によって可能になった神の救いの計画』です。
この福音には、人が神のもとへ戻るために必要な永遠の真理や律法、聖約、儀式が含まれます。
真理
哲学などにおいても真理という言葉が使われることがありますが、ここでは福音について使われる『真理』という言葉についてお話しします。
『真理とは、現在あるとおりの、過去にあったとおりの、また未来にあるとおりの、物事についての知識である。』
(『教義と聖約』第93章24節)
また、天からの光と啓示を指す言葉として用いられることもあります。
イエスは自身を指して真理である、と語っています。
『イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」』
(『ヨハネによる福音書』第14章6節)
とてもざっくり言うと、『あらゆることに対しての正しい知識』ということです。
『あらゆること』ですから、化学、医学などをはじめとした様々な専門知識も含まれます。
たくさんの学者たちがその専門分野で新しい発見を繰り返していますが、それらはそもそも神が定められた律法の一部を読み解いた、と言い換えることもできます。
神はこの世の万物を創造されましたが、同時にこの世に存在するすべての定理をも創造されました。
人類は学び、求めることでそれら神が定められた定理を少しずつ理解しているのです。
科学など人の学びと宗教を相いれない別のカテゴリとして考える方が多いかもしれませんが、わたしたち末日聖徒はそのようには考えていません。
現在の大管長であるラッセル・M・ネルソンは長年心臓外科医として働き、医学に貢献してきました。
その中で、様々な主の助けがあったことを語っています。
ラッセル・M・ネルソンhttps://www.churchofjesuschrist.org/church/leader/russell-m-nelson?lang=jpn
真理から得られる自由
またイエスは、真理を知ることで自由を得ることができるとも教えています。
『イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、本当にわたしの弟子なのである。
また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。
イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。
そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。
だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、本当に自由な者となるのである。』
(『ヨハネによる福音書』第8章31節〜36節)
彼がいう『自由』とは罪からの解放であり、神に従うことによって真理を少しずつ知り、そこから得られる自由という意味です。
『神に従っているのに自由と言えるのか』という意見もありますが、人が自分で思い通りに行動することには責任が付きまといます。
人が神に従わず思い思いに行動し、その結果他人を傷つけたり恨みを買うようになったとしたらどうでしょう。
そこには罪が生じ、その人は罪に縛られ罪の奴隷となってしまうかもしれません。
また、そもそも自制心が欠如していることを自由だと履き違えることは賢い考えではありません。
神の戒めに従って生活することは、人によっては『さまざまなやりたい事を束縛してできなくする愚かな行為だ』と考えるかも知れません。
我々には神によって自由意志が与えられていますから、そのように否定的に考えて実際に行動することも許されています。
まさに『その人の自由』なわけです。
福音に従う者と従わない者
福音を人々に伝えようと伝道を行う者や、福音に従って生きようとする者は、古代から嘲られ、蔑まれてきました。
そのような考え方は現代においても何ら変わっていません。
『そして、わたしは一人の男の人を見た。その人は白い衣を着ていて、わたしの方に来て、わたしの前に立った。
そして、その人はわたしに言葉をかけて、後について来るように言った。
そこでついて行くと、わたしは自分が暗くて寂しい荒れ野にいることが分かった。
そして暗闇の中を長い間進んだところで、わたしは、主がその豊かな深い憐れみによってわたしを憐れんでくださるように、主に祈り始めた。
そして主に祈り終えると、大きく広々とした野原が見えた。
そして、一本の木が見えたが、その実は人を幸せにする好ましいものであった。
そこで、行ってその木の実を食べると、それは、今までに味わったどんな実よりもずっと甘いことが分かった。またその木の実は白く、今までに見たどんな白いものにも勝って白かった。
そしてその木の実を食べると、わたしの心は非常に大きな喜びに満たされた。それでわたしは、家族にも食べてほしいと思い始めた。その実が、ほかのどんな実よりも好ましいことが分かったからである。…
それから、一本の鉄の棒が見えた。それは川の岸に沿ってずっと延び、わたしが立っているそばの木の所まで達していた。
また一本の細くて狭い道も見えた。その道はこの鉄の棒に沿い、わたしの立っているそばの木の所まで来ていた。その道はまた、流れの源のそばを通り、まるで一つの世界かと思われるような、大きく広々とした野原に通じていた。
わたしは群れ集まる無数の人々を見たが、その中の多くは、わたしの立っているそばの木の所に通じる道にたどり着こうとして、押し進んでいた。
そして、その人たちは進んで来ると、木に通じている道を歩き始めた。
そこで、暗黒の霧が起こった。まことに、非常に深い暗黒の霧であったため、道を歩き始めていた人々は道を見失い、迷って姿が見えなくなってしまった。
そして、わたしはまた、推し進んでくるほかの人々を見たが、この人々は進んで来て、鉄の棒の端をつかんだ。そして彼らは、鉄の棒にすがりながら暗黒の霧の中を押し進み、ついに進んできてその木の実を食べた。
そして彼らは、木の実を取って食べると、恥じるかのように辺りを見回した。
それでわたしも辺りを見回すと、水の流れている川の向こう側に、一つの大きく広々とした建物が見えた。それは地上に高くそびえ、ちょうど空中にあるかのように立っていた。
その建物は、老若男女を問わず人々でいっぱいであった。この人々の衣服の装いは、非常に華やかであった。そして彼らは、その木の所までやって来てその実を食べている人々を指さし、あざけり笑っている様子であった。
それでその木の所までやって来た人々は、その実を味わった後にあの人々にあざけり笑われたので恥ずかしく思い、禁じられた道に踏み込んで姿が見えなくなってしまった。』
(『ニーファイ第一書』第8章5節〜12節、19節〜28節)
上に引用したのは、ヤコブの子ヨセフの子孫のひとりであるリーハイが紀元前約600年頃に夢で見た示現です。
彼は『命の木』の示現を見ました。その木がつける白い実は神の愛、鉄の棒は神の言葉、暗黒の霧はサタンの誘惑と解釈されています。
最後の方に出てくる大きな建物はこの世を指します。
この世の欲に染まり、傲慢になっている人々から見ると、神の言葉にすがる者たちは愚かに映るでしょう。
そういった人達から嘲られ、信仰を捨てる人も多くいます。
ですが彼らのいた大きな建物は『空中にあるかのように立っていた』と表現されています。
これは建築物としての土台がなく、簡単に崩れ落ちるという意味です。
古代から預言者たちは主を指して『岩』『隅のかしら石』と呼んでいます。
これは、キリストの教会という建物の堅固な土台こそがイエス・キリストであるという意味です。
『彼は言った、「主はわが岩、我が城、わたしを救う者、
わが神、我が岩。わたしは彼に寄り頼む。わが盾、わが救いの角、わが高きやぐら、わが避け所、わが救い主。わたしはあなたを暴虐から救われる。」』
(『サムエル記下』第22章2、3節)
『あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
このイエスこそは、「あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石」なのである。』
(『使徒行伝』第4章10、11節)
リーハイはこの夢の中で見たあざける人々を『気に留めなかった』と息子たちに伝えています。
信仰を告白し、人から笑われても相手に対して怒りの感情を持つのは良いことではありません。
サタンは人々を互いに怒って争わせようとするからです。
神から得られる真理には他者を思いやる慈愛が含まれます。
もちろんすべての人が瞬時に神の真理を理解できるわけではありませんが、父なる神のみもとに戻るためには、神の真理を得ようと努力することが必要です。
新約の時代とは異なり、現在イエスは地上にはおられませんが、彼の代わりに人々に真理を教える方が存在します。
それが御霊、つまり聖霊です。
『御霊、すなわち真理を教えるために遣わされた慰め主によって、わたしの福音を宣べ伝えるためである。』
(『教義と聖約』第50章14節)
聖霊については第二十二回で少しお話ししましたので、今回は割愛します。
律法
律法とは神が定められた戒め、あるいは定めのことです。
天においても地上においても、祝福や罰はすべて律法に基づいて与えられます。神の律法に従う人々は約束された祝福を受けます。
かつて旧約の時代にモーセに与えられた律法は、人々をキリストに導くための備えの律法でした。
モーセの律法は制限的規定や規則、儀式を定めたものでした。モーセの律法を成就した現在のキリストの律法は、完全な福音、すなわち『完全な自由の律法』です。
『これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。』
(『ヤコブの手紙』第1章25節)
戒めは人類の初めから与えられていました。
アダムは神からいくつもの戒めを与えられています。
『神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』
(『創世記』第1章28節)
『主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。』
(『創世記』第2章16節)
『アダムとその妻エバは主の名を呼び、エデンの園の方向から彼らに語る主の声を聞いた。しかし、主を目にすることはなかった。彼らは主の前から締め出されていたからである。
主は彼らに、主なる彼らの神を礼拝し、主へのささげ物として群れの初子をささげるようにと戒めを与えた。アダムは主の戒めに従順であった。』
(『モーセ書』第5章4、5節)
万物に与えられた律法
『律法』という言葉から受けるイメージは、たとえば法律だとか人に深く関係しているもののように感じるかもしれません。
ですが神は、われわれ人間以外にも律法をお与えになりました。
『さらにまた、まことに、わたしはあなたがたに言う。神は万物に、その時とその時期に応じて運行する律法を与えた。
そして、それらの軌道、すなわち地球とすべての惑星を含む天と地の軌道は定まっている。
それらは、その時とその時期に、すなわちその分に、その時間に、その日に、その週に、その月に、その年に、互いに光を与え合う。すなわち、これらはすべて神にとっては一年であるが、人にとってはそうではない。
地球はその翼をもって回転して進み、太陽は昼間にその光を与え、月は夜中にその光を与え、またもろもろの星も、神の力の中にあって、その栄光をもってその翼で回転して進みながらその光を与える。』
(『教義と聖約』第88章42節〜45節)
天体の軌道が規則正しく定められているのも、地球に四季が存在するのも、すべては神がそれぞれに与えられた律法によるのです。
律法と祝福
人が神からの祝福を受けるときは、それが基づく律法に従っている、という聖句があります。
『創世の前に天において定められた不変の律法があり、すべての祝福はこれに基づいている。
すなわち、神から祝福を受けるときは、それが基づく律法に従うことによるのである。』
(『教義と聖約』第130章20、21節)
人は神からさまざまな祝福を受けます。
小さきものから大いなるものまで、その人ひとりひとりに応じて数え切れないほどに神の祝福は存在していますが、それを受けるとき、ひとは神の律法に従っているということです。
わたしたちは神からの祝福を受けたいと望むとことがありますし、神御自身もわたしたちひとりひとりに多くの祝福をお授けになりたいと望んでおられます。ですが、ただそれを望むだけで自分自身の改善や見直しを行わないようでは、いつまで経っても祝福は期待できません。
あくまでも神の律法、戒めを守るための行動が伴い、信仰を保ち続けることが必要です。
『愛する兄弟姉妹の皆さん、天の御父とイエス・キリストは、わたしたち一人一人に祝福を授けたいと望んでおられます。どうしたらそうした祝福を得られるかについて、何世紀にもわたって神学上の討論や議論の的となってきました。祝福は皆自力で得るもの、つまり自分の行いを通してのみ得られるものだと言う人がいます。一方で、神はすでに祝福をだれに、どう授けるかを決めておられ、それが変わることはないと言う人もいます。この二つの意見のどちらにも根本的な誤りがあります。天からの祝福は、「よい行いのクーポン」を必死に集めても、あるいは祝福という宝くじに当たるのをなすすべもなく待っていても得られるものではありません。実のところ、祝福を受けるということにはもっと深い意味合いがあります。祝福は、愛に満ちた天の御父と御父のようになろうとしているわたしたちとの関係に根差したものなのです。回復された真理により明らかなのは、祝福は決して自力で得るものではないこと、そして信仰に動機づけられ、たゆまず行動することが不可欠であるということです。
神から祝福を受ける方法を考えるに当たり、天の祝福を積み重ねられた木に例えてみましょう。真ん中には火をつけるための小枝が小さく盛られ、細かい木くずで覆われているのを思い浮かべてください。その上に枝、次に細いまき、最後に太いまきが積み重なっています。積み重ねられた木には、何日間も灯りと熱を発することが可能な大量の熱源が含まれています。積み重ねられた木の近くに、先端にリンの付いた1本のマッチ棒が置かれた様子を思い描いてください。
この木に含まれるエネルギーを放出するには、マッチを擦りたき付け用の小枝に火をつけなければなりません。すると小枝はすぐに燃えだし、より大きな木へと燃え広がります。いったんこの燃焼反応が始まると、それは木が燃え尽きるか、酸素がなくなるまで続きます。
マッチを擦って小枝に点火するというささやかな行為が、木の持つ潜在的なエネルギーの放出を可能にするのです。積み重ねられた木の大小にかかわらず、マッチを擦るまでは何も起きません。マッチそのものから発せられる光と熱はわずかなため、マッチを擦っても小枝に火をつけなれば、木の内にある燃焼エネルギーが放出されることはありません。どこかの時点で酸素がなくなれば、燃焼反応はやんでしまいます。
同様に、神がわたしたちに与えたいと望んでおられる祝福のほとんどは、イエス・キリストを信じる信仰に基づくわたしたちの行動を必要としています。救い主を信じる信仰は、行動と力の原則です。まずわたしたちが信仰をもって行動すると、神の御心と神の時にかなって力がもたらされます。この順序はきわめて重要です。そして、最終的に受ける祝福と比べると、求められる行動は常にささいなものです。
約束の地へ向かう途中で、古代イスラエルの民に火の飛ぶ蛇が及んだときに何が起こったでしょうか。毒蛇にかまれることは致命的でした。しかし、かまれた人は,モーセが造って竿の上にかけた青銅の蛇を見るだけで癒しを受けることができました。何かを見るのにどれほどのエネルギーが必要でしょうか。見た人々は皆、天の力を受けて癒されました。かまれたほかのイスラエルの民は青銅の蛇を見ることをせず、命を落としました。見るだけの信仰を欠いていたのかもしれません。そんなささいな行動で約束された癒しが得られるとは信じがたかったのかもしれません。あるいは、故意に心をかたくなにして、神の預言者の勧告を拒んだのかもしれません。
神から注がれる祝福のスイッチを入れるという原則は永遠のものです。古代イスラエルの民と同様、祝福を受けるにはイエス・キリストを信じる信仰に従って行動しなければなりません。神は次のように明らかにされました。「創世の前に天において定められた不変の律法があり、すべての祝福はこれに基づいている。すなわち,神から祝福を受けるときは、それが基づく律法に従うことによるのである。」それでも、祝福は自力で得るものではありません。そのような考えは誤りですが、祝福を受ける資格は得る必要があります。わたしたちの救いは、イエス・キリストの功徳と恵みによってのみもたらされるのです。計り知れない主の贖いの犠牲は、積み重ねられた木が無限であることを意味しています。それに比べて、わたしたちの小さな行いはゼロに等しいですが、ゼロではありませんし、取るに足りないものでもありません。暗闇にともすマッチの光は何マイル先からも見えます。それどころか、天からも見えています。ささやかな信仰の行いは、神の約束に火をともすために必要だからです。
望む祝福を神から受けるには、マッチを擦ってください。信仰をもって行動するのです。そうすることにより天の祝福を受けることができます。例えば、祈りの目的の一つは、神が授けようとしておられる祝福を頂くことですが、それにはわたしたちが求めるという条件が伴います。アルマは憐れみを叫び求めたため、痛みが消え、二度と罪を思い出して苦しむことはなくなりました。喜びが痛みに勝ったのです。このことはすべてアルマがイエス・キリストを信じる信仰を込めて叫び求めたために起こりました。真心から神に祈り求め、主の御心と、答えの来る時を受け入れるために必要なキリストへの信仰を持つことで、祝福の火をともす活性化エネルギーを得ることができます。
多くの場合、祝福を受けるのに必要な活性化エネルギーには、ただ見たり願ったりする以上のことが求められます。継続的に、繰り返し、信仰深い行いをすることが求められるのです。
(デール・G・レンランド長老『多くの祝福を得る』より一部抜粋 2019年4月総大会)
儀式
儀式とは神聖な儀礼や祭式です。また儀式は、霊的な意味を持つ所作を通して執行されます。
教会で行うことができる儀式と、聖なる神殿内でのみ執行可能な儀式があります。
わたしたちの教会の儀式には、聖餐の祝福、水に沈めるバプテスマ、幼児の祝福、病人への癒しの祝福、聖霊の授与、神権の授与、また神殿で行われる複数の儀式、新しくかつ永遠の聖約による結婚などがあります。
この儀式も古代から行われてきました。
モーセ自身主から数多くの啓示を受け、エジプトから脱出させた民にも神聖な儀式を行なっていたと考えられますし、約束の地(現在のアメリカ大陸)に導かれたリーハイの子孫たちもモーセに与えられた律法を守っていました。
『そして民は、主の戒めを守るように努め、またモーセの律法に従って神の儀式を厳密に守った。彼らはモーセの律法が成就するまで、その律法を守るように教えられていたからである。』
(『アルマ書』第30章3節)
少し逸れますが、儀式はふさわしい権能、つまり神権を授かった者によって執行されなければなりません。
前述のモーセが主に取り上げられてからは、地上にはアロンの神権のみが残されました。
モーセが率いていた民が大神権の儀式を受けることを拒んだためです。
『まことに、主のために一つの家が建てられて、雲がその上にとどまるまで、この時代の人々のすべてが世を去ることはない。その雲とは、まことにその家に満ちる主の栄光である。
そして、聖なる神権によるモーセの息子たち、そのモーセは彼のしゅうとであるエテロの手の下でそれを受け、
エテロはカレブの手の下でそれを受け、
カレブはエリフの手の下でそれを受け、
エリフはエレミの手の下で受け、
エレミはガドの手の下で受け、
ガドはイザヤスの手の下で受け、
イザヤスは神の手の下でそれを受けた。
イザヤスはまたアブラハムの時代に生きていて、彼から祝福を受けた。
このアブラハムはメルキゼデクから神権を受け、メルキゼデクは先祖の血統を通してそれを受け、まことにノアにまで至り、
ノアから先祖の血統を通してエノクまで至り、
エノクから、兄の陰謀によって殺されたアベルに至る。アベルは、神の命令により最初の人であった父アダムの手によって神権を受けた。
この神権はあらゆる時代に神の教会の中に存続し、日の初めもなく年の終わりもない。
また、主はアロンとその子孫にも、代々一つの神権を確認した。この神権も、神の最も聖なる位に従う神権とともにいつまでも存続し、残るものである。
また、この大神権は福音をつかさどり、王国の奥義の鍵、すなわち神の知識の鍵を持つ。
それゆえ、この神権の儀式によって神性の力が現れる。
また、神権の儀式と権能がなくては、肉体を持つ人間に神性の力は現れない。
これがなくては、だれも神、すなわち父の御顔を見て、なお生きていることはできないからである。
さて、このことを、モーセは荒れ野の中でイスラエルの子らに分かりやすく教え、その民が神の顔を見ることができるように、彼らを聖めようと熱心に努めた。
しかし、彼らは心をかたくなにし、神の臨在に耐えることができなかった。そのため、主の怒りは彼らに向かって燃え、主は激しく怒って、彼らは荒れ野にいる間神の安息に入れないと誓った。この安息とは、主の完全な栄光のことである。
それゆえ、主は彼らの中からモーセを取り去り、また聖なる神権も取り去った。
そして、小神権が存続した。この神権は、天使の働きと備えの福音の鍵を持つものである。
この福音は、悔い改めとバプテスマと罪の赦しの福音、また肉の戒めの律法であって、主は激しく怒り、この律法をアロンの家とともにイスラエルの子らの中にヨハネに至るまで存続させた。そのヨハネは、母の胎内から聖霊に満たされており、神が立てた者である。』
(『教義と聖約』第84章5節〜27節)
すべての人類は、福音の律法と儀式に従うことで救いを得られます。これもすべて、キリストの贖罪によって可能となりました。
さいごに
わたしたち末日聖徒イエス・キリスト教会には『専任宣教師』と言って、キリストの福音を宣べ伝えるために世界中に出て行って働く若者たちがいます。
彼らは男性の場合18歳から、女性の場合は19歳から召しを受けることができます。
最近ではウィルスパンデミックの影響で、福音を述べ伝える機会もオンラインで行うように移行しているようですが、以前は男性も女性も二人ひと組となり、自転車に乗って世界中で福音を宣べ伝える働きをしていました。
わたしも学生の時、街中で宣教師らしい二人の若者を見かけたことがありました。
彼らはいつの時代も福音の種を蒔き続けています。
彼らが蒔いた種をいつも彼ら自身が刈り取るわけではありませんが、彼らの後に来る者が刈り入れを行うかもしれません。
『あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四ヶ月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。
刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。
そこで、「ひとりがまき、ひとりが刈る」ということわざが、ほんとうのこととなる。
わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである。』
(『ヨハネによる福音書』第4章35節〜38節)
それでも宣教を行う者たちは、力の限り働きます。
一人でも多くの人に救いを得させるための機会を知ってもらうためです。
救いに預かって得られる喜びというのは、この世で得られるいかなる喜びよりも大いなるものだと記されています。
わたしたちは預言者たちの記録からそのことを知ってはいますが、実際にまだ得ていないためにそれがどれほどのことなのかは分りません。
聖典に記されている『喜び』をともに受けるため、わたしたち一般の教会員もまた、一人でも多くの人に福音を知ってもらえるように働きます。
『見よ、主なるあなたがたの贖い主は、肉体において死を受けた。それによって、すべての人が悔い改めて自分のもとに来ることができるように、主はすべての人の苦を引き受けた。
そして、悔い改めを条件として、すべての人を自分のもとに導くことができるように、主は再び死者の中からよみがえったのである。
人が悔い改めるとき、主の喜びはいかに大きいことか。
あなたがたはこの民に悔い改めを叫ぶために召されている。
あなたがたはこの民に悔い改を叫ぶことに生涯力を尽くし、一人でもわたしのもとに導くならば、わたしの父の王国で彼とともに受けるあなたがたの喜びはいかに大きいことか。
さて、あなたがたがわたしのもとに導いてわたしの父の王国に入れるようにした、一人の人とともに受けるあなたがたの喜びが大きいならば、もし多くの人をわたしのもとに導くとすればその喜びはいかに大きいことか。
見よ、わたしの福音はあなたがたの前にある。わたしの岩、またわたしの救いがある。』
(『教義と聖約』第18章11節〜17節)
今回はここまでにしましょう。
聴いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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