福音ラジオ 第三十七回『人の前世と来世』

目次

導入

みなさんこんばんは、かいです!

聴いてくださっているみなさんに感謝します。

ありがとうございます。

わたしが子供の頃から、現在においてもちょくちょく耳にするコンテンツがあります。

それは、『人の前世』についてです。

占い師や霊感があるという人に見てもらうと、「あなたの前世は〇〇年前のフランスの貴族でした」とか、「あなたは〇〇の国王でした」とかいろんなことを言われます。

さらに「あなたとあなたの奥さんは前世で親友でした」など、周囲の人も巻き込んで説明することもあります。

占い師や霊感がある人に「わたしにはそれが見えています」と言われれば、それが実際には見えていないと証明することはほぼ不可能ですので、受け入れるか信じないかは本人次第ということになります。

人によっては、「人類が誕生してから何十万年も経っているのだから、これまでにどれほどの人が死んでいるのか分からない。仮に霊の住んでいる世界があるとして、そんなにたくさんの人がいちどきに居られるほどに広いのか?そうではなく、人は死んだら一定期間を置いて転生し、新しい人生をやり直すのだ。そう考える方が自然だ」という意見も聞いたことがあります。

彼らに言わせると、「人の魂は何度も転生を繰り返すことで成長する」ということです。

一見すると「なるほど一理ある」と感じますが、果たして本当でしょうか。

彼らの考えの基礎となっているのは「輪廻転生」ですが、この考えを取り入れているのはヒンドゥー教やシーク教など、インド哲学が有名です。

さらに古代ギリシアの宗教思想でも同様の考えが見られます。

ただ、一部のヒンドゥー教宗派は転生を信じていなかったり、逆に転生を信じていないイスラム教の一派は受け入れていたりと、かなり広い範囲に影響を与えていることは間違いないようです。

ここで細かいことに言及するつもりはありませんが、『輪廻』『転生』を正しく理解するには「どこかで調べた、あるいは誰かが言っていた」という程度の知識では不十分です。

私たちにとって比較的馴染み深い仏教でも「輪廻転生という概念はある」、という方が多いようですので、実際はどうなのか、少なくとも手に入る経典を熟読し、理解できるように努力することが必要になると思います。

わたしはクリスチャンですので、聖典から『前世』『来世』について紐解いてみましょう。

今回の記事の中にはわたし個人の考えが含まれています。

それらについては末日聖徒イエス・キリスト教会の公式の見解ではないことをここに明言します。

祈りのススメ

この記事内にはわたしたちが所属する末日聖徒イエス・キリスト教会の聖典である新約、旧約の聖書とモルモン書、教義と聖約、高価な真珠の中から聖句を引用しています。

また総大会と呼ばれる教会指導者たちの勧告などのお話からも引用する場合があります。

クリスチャンである方もそうでない方も、聖句を読むとき、以下のことに注意を払っていただけましたら幸いです。

『見よ、わたしはあなたがたに勧めたい。あなたがたにとってこの記録を読むことが、神の知恵にかなうようであれば、あなたがたはこれを読むときに、アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで、主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。

また、この記録を受ける時、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。

そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。』

(『モロナイ書』第10章3節〜5節)

前世とは何か

冒頭で述べましたように、『前世』というと『今現在生きている肉体ではなく、別の時代の別の人物、あるいはヒト以外の生命体として生活していた時の人生』ということになりますが、おそらくクリスチャンの方でしたらこの考えには否定的なのではないでしょうか。

聖書には、私たちが地上に来る前に起こったこと、つまり前世で起こったことに言及する聖句が複数記されています。

旧約聖書の中から紹介します。

『あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。

わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。

あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。

その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。

かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった。』

(『ヨブ記』第38章2節〜7節)

上に引用した部分は、主がヨブという人物に対して質問しているシーンです。

『わたしが地の基をすえた時』というのは天地創造のときを指します。

主はこの時、ヨブに対して「どこにいたか」と尋ねています。

「どこに」という以上、ヨブはこの時すでに存在していたことになります。

ですが、創造主たちによって地が造られているとき(あるいは造られたとき)に、ヨブがわたしたちと同じように肉体を持っていたとは考えられません。

なぜなら、地上の最初の人は『アダム』であると創世記に記されているからです。

『アダムの系図は次のとおりである。神が人を創造された時、神をかたどって造り、

彼らを男と女に創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。

アダムは百三十歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、その名をセツと名づけた。

アダムがセツを生んで後、生きた年は八百年であって、他に男子と女子を生んだ。

アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ。』

(『創世記』第5章1節〜5節)

上に引用した聖句で『アダム』という語が5回登場しますが、2番目の『その名をアダムと名付けられた』は、正確には最初のひとであるアダム個人を表しているのではありません。

それ以外の4つはアダム個人名です。

また、引用した聖句にはまるでアダム自身が出産したように書かれていますが、もちろんそうではありません。あくまで出産したのはアダムの妻であるエバです。

ヨブ記に戻って7節には、『かの時』すなわち天地創造の時、『明けの星』『神の子たち』が歌い、喜び呼ばわったと記されています。

『神の子たち』とはわたしたち人間を指す言葉です。これが『明けの星』と同意義として使われています。

つまり、『明けの星』もまたわたしたち人間を象徴として指す言葉であるということです。

新約聖書にもわたしたちを指して『星』と呼んでいる箇所があります。

『また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。

その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。龍は子を産もうとしている女の前に立ち、生れたなら、その子を食い尽そうとかまえていた。』

(『ヨハネの黙示録』第12章3、4節)

『赤い龍』で表されるサタンは、天において自分に味方する者たちを集めましたが、地に落とされました。

サタンに従った『天の星の三分の一』は、わたしたちのきょうだいでもある神の子らです。

彼らは地に落とされたことで肉体を持つことができず、『悪霊』とか『悪魔の使い』などと呼ばれ、現在も地上を徘徊しています。

残りの三分の二の神の子らはサタンに従わず、神に従いました。

この選択によってわたしたちは肉体を授かって地上での生活を経験し、成長することができるようになりました。

つまり、わたしもこれを聴いてくださっているあなたも、『天の星の三分の二』の神の子らであったということです。

黙示録から引用した部分もまた、人が肉体を持って地上に来る前のことを表しています。

つまり、わたしたちの前世での出来事です。

『天の星』とありますので、かつてわたしたちは天と呼ばれるところにいたのだと思われます。

さらに、サタンが地に落とされる前の状況を表していますので、肉体を持ってはいなかったのも間違いないでしょう。

最初に霊的に創造された

『創世記』には載っていないのですが、わたしたちの教会で聖典として認められている『高価な真珠』に収められているひとつの部分があります。

『さて​見よ、わたし​は​あなた​に​言う。これ​が​天地​創造​の​由来で​ある。主​なる​神で​ある​わたし​が​天​と​地​を​造った​とき、

地に​は​まだ​野の​植物も​なく、また​野の​草も​生えて​いなかった。主​なる​神​で​ある​わたし​は、わたし​が​語った​すべて​の​もの​を、それら​が​地の​面​に​自然に​存在する​に​先立って​霊的に​創造した。主​なる​神​で​ある​わたし​は、地の​面​に​まだ​雨​を​降らせて​いなかった​から​で​ある。主なる​神で​ある​わたし​は、人​の​子ら​を​すべて​創造して​いた​が、まだ​土​を​耕す​人​は​いなかった。わたし​は​彼ら​を​天で​創造​した​の​で​ある。そして、地上に​も、水​の​中に​も、空​に​も、まだ​肉​なる​もの​は​いなかった。』

(『モーセ書』第3章4、5節)

創造主たちが天と地を創ったとき、すでにわたしたち人の子らは全て霊的に創造されていました。

そして、植物も動物もすべて、肉体を持って造られる前から霊の状態で造られていたのです。

英知たち

わたしたち神の霊の子供たちを指して『英知たち』と呼ぶ場合があります。

聖典の中には『英知』という言葉が出てきますが、この言葉には複数の意味があります。

ひとつめは、宇宙の万物に命と光を与える真理の光です。

もうひとつは前述のように、『英知たち』という言葉でわたしたち神の霊の子供たちを指す場合があります。

もうひとつは少しややこしいのですが、『人が霊の子供としてもうけられる前から存在していた霊の元素』を指して『英知』ということもあります。

『霊の元素』という言葉は聞きなれない方も多いと思います。

そもそも霊ってなに?という方も多いでしょう。

霊もまた物質です。

ただ、非常に微細で純粋なため、わたしたちの目では見ることができないのです。

末日の啓示によって知らされたひとつを引用します。

『実態のない物質というものは存在しない。霊はすべて物質であるが、もっと微細で純粋であり、より清い目によってのみ見分けることができるものである。

わたしたちはそれを見ることができない。しかし、体が清められるとき、それがすべて物質であることが分かるであろう。』

(『教義と聖約』第131章7、8節)

わたしたちの肉体は聖典の言葉を引用すると、『土のちり』から造られています。

『主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。』

(『創世記』第2章7節)

もちろんここで言われる『土のちり』とは土砂など特定のものを意味する物質を指しているわけではありません。もっと微細な、素粒子のことを指していると思われます。

『アブラハム書」に収められている天地創造の表現に、そのことを思わせる聖句があります。

『そして、彼らの中に神のような者が一人立ち、ともにいた者たちに言った。「あそこに空間があるので、わたしたちは降って行こう。そして、これらの材料を取って、これらの者が住む地を造ろう。…」』

(『アブラハム書』第3章24節)

上に引用した聖句には、地を造るために『材料』を取ったことが記されています。

わたしたちが現在理解している限りで言っても。地球は土砂だけで造られているわけではありません。

海や湖を構成する水があり、四季を彩る草木があります。

さらに、わたしたち生命を有するものの肉体や大気を構成する気体も同様です。

これらすべてを構成するものを分解していった微細な粒子を指して『土のちり』と表現しているのだと思われます。

霊を構成しているものは、もしかすると『土のちり』を構成している粒子よりもさらに微細なものなのかもしれません。

そして、そういったものを『英知』と聖典の中で呼んでいます。

人の意識はどこから来ているのか

以前わたしが考えていた事柄の一つに、「今こうして思考している意識はどこから来ているのか」というものがありました。

無神論の友人は「人間の思考は脳から出る電気信号のひとつに過ぎない」といいましたが、正直なところそれだけでは納得できる回答とは言えません。

これについての結果を先に申し上げますと、 「完全に理解することは現段階では不可能」、もしくは「万人を完全に納得させるのは現段階では不可能」です。

ですが、今わたしたちに与えられている啓示を紹介します。

『アブラハム書』からの引用です。

『「…さて、もし二つのものがあって、一つが他よりも上位にあり、月が地よりも上位にあるとすれば、それよりも上位にある遊星、あるいは星もある。主なるあなたの神が行おうと心にかけたことで、行わないことはない。

とはいえ、主はさらに大いなる星を造った。同じように、もし二つの霊がいて、一方が他方よりも英知に優れているとしても、一方が他方に優れているにもかかわらず、これら二つの霊には初めがない。彼らは以前に存在しており、彼らには終わりがなく、彼らは後にも存在する。彼らはグノーラーム、すなわち永遠だからである。」

主はわたしに言われた。「実にこれら二つの事実がある。すなわち、二つの霊がいて、一方が他方よりも英知に優れている。彼らよりもさらに英知の優れた別の霊がいる。わたしは主なるあなたの神であって、わたしは彼らすべてよりも英知が優れている。

…わたしは彼らすべての中に住んでいる、そして、わたしの手で造った者をあなたに告げ知らせるために、わたしは今あなたのもとに降って来たのである。これにおいて、わたしの知恵は彼らすべてに勝っている。わたしはあらゆる知恵と思慮とをもって、あなたがその目で初めから見てきたすべての英知たちを、上は天で、下は地で治めているからである。わたしは初めに、あなたの見てきたすべての英知たちの中に降って来た。」

さて、主はわたしアブラハムに、世界が存在する前に組織された英知たちを見せてくださった。そして、これらすべての中には、高潔で偉大な者たちが多くいた。

神がこれらの者を見られると、彼らは良かった。そこで、神は彼らの中に立って言われた。「わたしはこれらの者を、治める者としよう。」神は霊であったこれらの者の中に立って、見て、彼らを良しとされたからである。また、神はわたしに言われた。「アブラハム、あなたはこれらの者の一人である。あなたは生まれる前に選ばれたのである。」』

(『アブラハム書』第3章17節〜19節、21節〜23節)

引用した部分を読むと、いくつかのことが読み解けます。

一つに、わたしたちは霊として造られた。

次に、霊は永遠であって、初めがなく、終わりもない。

そして、アブラハムをはじめとする人々は、世界が作られる前からすでに『高潔で偉大な者たち』と呼ばれていたことです。

三番目を考えると、霊であったわたしたちは、天という所でいたとき、すでに人格などに個人差があったということを理解できます。

つまり、わたしたちの意識は脳という肉体の組織によって発生するものではないということです。

肉体を持たない霊の状態でもわたしたちはそれぞれの人格を備えていました。

霊の状態であった頃のわたしたちと、肉体を持つ現在のわたしたちとが全く同じ思考であるという保証はありませんが、 いずれにせよ、わたしたちは霊の状態でも神の言葉を聞き、考え、理解することはできていたのです。

そして、二つ目を考えると、霊は永遠であるということですが、これについてはまだ解らないことが多くあります。

例えば、霊は永遠というなら、どうやって神は私たちをお造りになったのか。

神がわたしたちをお造りになるどの段階で個人の意識が生まれたのか。

神がわたしたちを霊の存在として組織されたということについては、なんとなく予想できます。

地を創造された時と同じように、霊という物質(英知)をもってわたしたちの体を組織されたのかもしれません。

もう一つの、わたしたち個人の意識がいつから、どのような形で存在しているのかは現段階では残念ながら正確にはわかりません。ただ、わたしたちは『永遠から永遠に渡って』存在している、と聖典には記されています。

人の魂はひとつ

クリスチャンの教義の一つである『復活』について理解している方からすると、輪廻はないと断言するでしょう。

そもそも人の霊は肉体の死によって体を離れても、ふさわしい時になると完全な肉体に復活し、その後は二度と霊は肉体を離れることはない、というのが復活の教義です。

『モルモン書』にこの復活について記されている箇所がありますので紹介します。

『さて、肉体の死と呼ばれる死がある。そして、キリストの死は将来この肉体の死の縄目を解き、すべての人がこの肉体の死からよみがえる。

霊と体は再び結合して完全な形になり、手足も関節も、ちょうど今のわたしたちのような、その本来の造りに回復される。そして、わたしたちは今持っている知識を保ったまま、神の御前に連れ出されて立ち、自分のすべての罪をはっきりと思い出す。

さて、この復活は、老いた人にも若い人にも、束縛された人にも自由な人にも、男にも女にも、悪人にも義人にも、すべての人に与えられる。そして、髪の毛一筋さえも失われることはなく、すべてのものが今あるような、その完全な造りに、すなわち体に回復される。それから、自分の行いが善いか、それとも悪いか、行いに応じて裁かれるために、一つの永遠の神である御子なるキリストと御父なる神と聖なる御霊との法廷に連れ出され、罪の有無を問われる。

さて見よ、わたしは死すべき体の死について、また死すべき体の復活についてあなたに語ってきた。わたしはあなたに言う。この死すべき体は不死不滅の体によみがえる。死から、すなわち第一の死から命に移り、すべての人がもう死ぬことはあり得ない。彼らの霊は体と結合して、決して分離しない。このように相合したものは、霊的な、不死不滅のものとなり、彼らはもはや朽ちることがない。』

(『アルマ書』第11章42節〜45節)

ここで疑問となってくるのが、肉体の死を受けてから復活まで、霊はどうなっているのか、ということです。

このことについても同じく『アルマ書』から引用します。

『「さて、わが子よ、あなたに言っておきたいことがもう少しある。死者の復活について、あなたが心を悩ましていることが分かるからである。

見よ、わたしはあなたに言っておく。キリストの来臨後までは復活はない。言い換えれば、そのときまで、この死すべき体が不死のものを着ることはなく、この朽ちるものが朽ちないものを着ることはないということである。

見よ、キリストは、死者の復活を実現される。しかしわが子よ、その復活の時はまだ来ていない。あなたに一つの奥義を明らかにしよう。神御自身のほかだれも知らない隠されている奥義がたくさんある。しかし、わたしが知りたいと思って神に熱心に尋ねた一つのことについて、あなたに告げよう。それは復活に関することである。

見よ、すべて​の​人​が​将来、死者の​中​から​​出て​来る​定められた​時が​ある。さて、その​時が​いつ​やって​来る​か​は​だれ​も​知らない。しかし、神​は​定められて​いる​その​時​を​御存じ​で​ある。

さて、人が​死者​の​中から​出て​来る​の​は​一度だけ​か、それとも​​二度か、三​度か、それ​は​重要で​は​ない。神​は​これら​の​こと​を​すべて​​御存じ​だから​で​ある。これ​が​事実で​ある​と​いう​こと、すなわち、すべて​の​人​が​死者​の​中​から​よみがえる​時が​定められて​いる​と​いう​こと​が​分かれ​ば、わたし​に​は​それ​で​十分​で​ある。

さて、死ぬ​時​と​復活の​時​の​間に​は、時の​隔たり​が​必ず​ある​に​違いない。

そこで​わたし​は​尋ねたい。​人​が​死んだ​時から​復活の​定められた​時​に​至る​まで、どの​よう​な​こと​が​人​に​起こる​の​だろう​か。

人​が​よみがえる​よう​に​定められて​いる​時​が​二度以上​ある​の​か​どう​か、それ​は​重要で​は​ない。すべて​の​人​は​同時に​は​死なない​から​で​ある。また、この​こと​も​重要​で​は​ない。すなわち、神​に​あって​は​すべて​が​一日​の​よう​で​あり、時​が​計られる​の​は​人​に​対して​だけ​で​ある。

したがって、人​に​対して、死者​の​中から​よみがえる​よう​に​定められた​時​が​ある。そして、死ぬ​時​と​復活​の​時​の​間​に​は、時​の​隔たり​が​ある。この​時の​隔たり​に​関して​どの​よう​な​こと​が​人の​霊​に​起こる​の​か、それ​が​知りたくて、わたし​は​主​に​熱心に​尋ねた。そして、この​こと​を​わたし​は​今​知って​いる。

すべて​の​人​が​よみがえる​時​が​来る​と、神​は​人​に​定められて​いる​​時​を​すべて​御存じ​で​ある​と​いう​こと​が​分かる​で​あろう。

さて、​死と​復活​の​間​の​人の​状態​に​ついて​で​ある​が、見よ、天使が​わたし​に​知らせて​くれた​ところ​に​よれ​ば、すべて​の​人​の​霊​は、この​死す​べき​体​を​離れる​や​いなや、まことに、善い​霊​で​あろう​と​悪い​霊で​あろう​と、彼ら​に​命​を​与えられた​​神​の​みもと​へ​連れ​戻される。

そして、義人の​霊​は​​パラダイス​と​呼ばれる​​幸福​な​状態、すなわち​​安息の​状態、​平安​な​状態​に​迎え​入れられ、彼ら​は​そこ​で​あらゆる​災難​と、あらゆる​不安と​憂い​を​離れて​休む。

​さて、その​とき​の​悪人​の​霊の​状態は​と​いえ​ば、見よ、彼ら​は​少しも​主​の​御霊​を​受けず​に、見よ、善い​行い​より​も​悪い​行い​を​好んだ​ので、悪魔の​霊​が​彼ら​の​内​に​入り込んで、彼ら​の​体​を​支配​して​いた。それで、これら​の​霊​は​外​の​​暗闇に​追い出され、そこ​で​​涙を​流し、泣き​わめき、歯ぎしり​を​する。これ​は、彼ら​自身の​罪悪の​ため​に、悪魔の​意の​まま​に​捕えられて​連れ​去られた​結果で​ある。

さて、これ​が​​悪人​の​霊​の​状態で​ある。まことに、暗闇​の​中​で、自分​たち​に​下る​火の​憤り​の​よう​な​神​の​激しい​怒り​を、ひどく​​恐れ​ながら​待って​いる​状態​で​ある。義人​が​パラダイス​に​とどまる​よう​に、彼ら​は​この​よう​に、自分たち​の​復活の​時​まで​この​​状態に​とどまる​の​で​ある。』

(『アルマ書』第40章1節〜14節)

引用した聖文を読むかぎり、人は肉体の死を受けたのち、生前正しい行いをしたか否かによって、復活の時まで留まるところが分けられていると理解できます。

正しい行いをした人は生前の苦難から解放されます。

そして悪人は生前の選びによって安息を得ることなく、復活の時まで苦しみを受けます。

わたしたちが理解している教義には『輪廻』という都合の良いものはありません。

人は与えられた生涯を懸命に大切に、正しい選びをしながら生きるべきです。

来世とは

『来世』という言葉の意味についても、わたしたちクリスチャンは世間一般の方の考えとは若干異なる解釈を持っています。

先ほど申し上げましたように、人の魂は一人に一つであって、数十年前、あるいは数百年前のどこかの国の誰かの生まれ変わり、ということはないと考えています。

ですので、現世の終わりに肉体の死を味わったのち、また一定の期間をおいてどこかの誰かに生まれ変わるとは期待しません。

私たちにとっての来世とは、『復活した後の生活』を指します。

人は一度死んだ後、そのひと個人のふさわしい時に不死不滅の肉体を持って復活します。

そして、聖典にもありますように、三つの段階の栄えのいずれかを受け、もしくは最後まで神に従う選択をしない『滅びの子』と呼ばれる人に関しては火と硫黄の燃える池に投げ入れられる事になります。

『天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。

日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。』

(『コリント人への第一の手紙』第15章40、41節)

わたしたち人の最終的な目的は『神のようになること』です。

一言で申し上げたこの言葉の意味を理解するのは簡単ではありませんが、わたしたちの目的は間違いなく神のようになることです。

わたしたちの教会の教義の一つであるこの目的を嘲笑するクリスチャンの方もいますが、残念ですが彼らは聖典を読んでいないか、読んでいたとしても正しく理解していません。

聖書をはじめとする聖典には、わたしたち人の目的が明確に記されています。

いくつかを紹介しましょう。

『それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。』

(『マタイによる福音書』第5章48節)

『イエスは彼らに言われた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。」』

(『ヨハネによる福音書』第10章34節)

『もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。』

(『ローマ人への手紙』第8章17節)

わたしたちは『神の子』であると聖文には繰り返し記されています。

神の『子供』であるならば、いつしか成長して親のようになるのではないでしょうか。

成長をしない子供はいません。ペースは人それぞれですが、それでも成長するものです。

わたしたちが成長して、親である神のようになることこそ、親すなわち神の喜びにはならないでしょうか。

子供の成長を喜ばない親もまたいないでしょう。

もちろん現世で神のようになることはできませんが、復活を果たし、不死不滅の体を得たのち、更なる成長を続けることによって、父なる神のようになれる可能性を持っています。

イエスはこのことについて、弟子たちにはっきりと伝えています。

『勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。』

(『ヨハネの黙示録』第3章21節)

また、神御自身もその目的をモーセに語りました。

『見よ、人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である。』

(『モーセ書』第1章39節)

末日の啓示には、わたしたちが神のようになることについて言及しているものがいくつかあります。

『さらに​また、まことに、わたし​は​あなたがた​に​言う。もし​ある​男​が​わたし​の​律法​で​ある​わたし​の​言葉​に​よって、また​​新しくかつ永遠の聖約​に​よって​妻​を​めとり、そして​それ​が、わたし​から​この​力​と​この​神権の​鍵​と​を​与えられた​油​注がれた​者​に​よって、約束​の​聖​なる​御霊​に​より​彼ら​に​結び固められ、また​彼ら​に、「あなたがた​は​第一​の​復活​に​出て​来る​で​あろう。もしも​第一の​復活​の​後​なら​ば、次​の​復活​に​出て​来る​で​あろう。そして、王位、王国、公国、および​力、主権、すべて​の​高い​所と​深い​所を​受け継ぐ​で​あろう」と​言われる​なら​ば、また​殺人を​犯して​罪の​ない​者​の​血​を​流して​は​ならない​と​小羊の​命の​書​に​記されて​いる​ので、あなたがた​が​わたし​の​聖約の​中​に​とどまり、殺人を​犯して​罪の​ない​者​の​血を​流す​こと​が​なければ、わたし​の​僕が​彼ら​に​授けた​すべて​の​事柄​は​何​で​あろう​と、この世​に​おいて​も​永遠​に​わたって​も、彼ら​に​行なわれ、彼ら​が​この世の​外に​去る​とき​に​も​完全​に​効力が​ある​で​あろう。そして、彼ら​は​そこ​に​置かれる​天使たち​と​神々の​そば​を​通り​過ぎ、彼ら​の​頭に​結び固められた​よう​に、すべて​の​事柄に​ついて​昇栄と​栄光を​受ける​で​あろう。その​栄光​と​は、とこしえ​に​いつまで​も​子孫が​満ちて​続く​こと​で​ある。

それで、彼ら​は​神々​と​なる。彼ら​に​は​終り​が​ない​から​で​ある。それゆえ、彼ら​は​続く​ので​永遠​から​永遠に​至り、すべて​の​もの​が​彼ら​に​従う​ので、彼ら​は​すべて​の​もの​の​上​に​ある​で​あろう。それで、彼ら​は​神々と​なる。彼ら​は​一切​の​権威を​持ち、天使たち​が​彼ら​に​従う​から​で​ある。』

(『教義と聖約』第132章19、20節)

父なる神もまた、これらの過程を踏んで昇栄を果たし、神となられました。

彼もまた、わたしたちと同じ死すべき人間だったのです。

さいごに

今回紹介した、人の前世、来世についてわたしたちが信じていることは、言ってしまえばあくまでも『仮説』の域を出ていません。

聖典には繰り返し記されており、全世界の多くの人がそれを信じ、また否定していますが、現段階では仮説であると言えます。 

肉体の死を味わったのちに復活した人に実際に会って、話をしたという経験はわたしにはありませんし、わたしの周りにもそのような経験をしたという人はいません。

復活したイエスに会い、話をした弟子達から直接話を聞いたわけでもありません。

ジョセフ・スミスをはじめとする何人かの教会員は実際にイエスにまみえた、という記録が残されていますが、これもまた信じるか否かは自由です。

ただ、わたしたち末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は自ら聖文を学び、研究し、得られた知識をもとにして、聖典に記されているとおり、『まだ見ていない真実のことを待ち望む』だけです。

今回はここまでにしましょう。

聴いてくださってありがとうございました。

またお会いしましょう。

おやすみなさい。

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人

はじめまして。プロフィールを見てくださってありがとうございます。
少し自己紹介をさせてください。
よもやま かいといいます。香川県出身です。
キリストを信じる信仰を持つクリスチャンで、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員です。
絵を描くことが好きで、筆記具を集めたりしてます。

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