導入
みなさんこんばんは、かいです!
聴いてくださっているみなさんに感謝しています。
ありがとうございます。
今回は『サタン』についてお話しします。
聖典にはサタン、あるいは悪魔や彼の使いとして働く悪霊についての記述がいくつかあります。
サタンとはいったい何なのか、少しでも理解する助けになれば幸いです。
今回も聖典、教会の出版物を参照します。
また、聖文の解釈に対する個人的な考えが含まれますが、特に指定のない場合、それらは教会の公式な見解ではありません。
悪魔
悪魔は義の敵であり、神に敵対するものです。また神の御心を行おうと努める人々の敵でもあります。
彼は実際にはわたしたちと同じ神の霊の子であり、かつては神の前で権威を持っていた天使でした。
ですが彼は御父の力と誉れを求めたので、御子の力によって地に落とされました。
『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。
あなたはさきに心のうちに言った、「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、
雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう」。
しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』
(『イザヤ書』第14章12節〜14節)
『わたしリーハイは、自分が読んだことから考えるのだが、記録にあるとおり神の一人の天使が天から落ち、彼は神の御前で邪悪なことを求めたので、悪魔になったと思わざるを得ない。』
(『ニーファイ第二書』第2章17節)
天から落とされた者
サタンはいったいどのようにして悪魔となったのでしょうか。
聖典にはその理由が記されています。
『主なる神であるわたしは、モーセに語って言った。「あなたがわたしの独り子の名によって命じたあのサタンは、初めからいた者である。彼はわたしの前に来て言った。『御覧ください。わたしがここにいます。わたしをお遣わしください。わたしはあなたの子となりましょう。そして、わたしは全人類を贖って、一人も失われないようにしましょう。必ずわたしはそうします。ですから、わたしにあなたの誉れを与えてください。』
しかし見よ、初めからわたしが愛し選んだ者であるわたしの愛する子は、わたしに、『父よ、あなたの御心が行われ、栄光はとこしえにあなたのものでありますように』と言った。
あのサタンはわたしに背いて、主なる神であるわたしが与えた、人の選択の自由を損なおうとしたので、またわたしの力を自分に与えるように求めたので、わたしは独り子の力によって彼を投げ落とさせた。
そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、わたしの声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となった。』
(『モーセ書』第4章1節〜4節)
サタンとなった天使は、天の衆群の三分の一を味方につけることに成功しました。
神はわたしたちに自由意志を与えておられます。
自らの意思で正しいことも正しくないことも選び、行動することが許されています。
私たちの選びに関しては、神といえども介入することができません。
それがわたしたちに神がお与えになったルールだからです。
わたしたちはどのようなことでも自由に選ぶことができますが、その選択の結果をも受け入れなければなりません。
『誰かに従ったからこうなったのだ』という言い訳は神の前では通用しません。
このルールはわたしたちがこの地上に肉体をとって生まれる前でも存在していました。
サタンに従った者たちは、このルールに則って天から落とされました。
『そして、アダムは悪魔に誘惑された。見よ、悪魔はアダムの前にいた。悪魔は、「わたしにあなたの誉れを与えてください」と言って、わたしに背いた。彼の求めた誉れはわたしの力である。また、彼は天の衆群の三分の一を、彼らの選択の自由によって私から背き去らせた。
そして、彼らは落とされて、悪魔とその使いになった。』
(『教義と聖約』第29章36、37節)
そもそも、サタンはなぜ御父に背いたのでしょうか。
上に挙げたモーセ書でも少し触れていますが、これはわたしたち人類の贖い主を誰にするのかを決めるときに起こりました。
『さて、主はわたしアブラハムに、世界が存在する前に組織された英知たちを見せてくださった。そして、これらすべての中には、高潔で偉大な者たちが多くいた。
神がこれらの者を見られると、彼らは良かった。そこで、神は彼らの中に立って言われた。「わたしはこれらの者を、治める者としよう。」神は霊であったこれらの者の中に立って、見て、彼らを良しとされたからである。また、神はわたしに言われた。「アブラハム、あなたはこれらの者の一人である。あなたは生まれる前に選ばれたのである。」
そして、彼らの中に神のような者が一人立ち、ともにいた者たちに言った。「あそこに空間があるので、わたしたちは降って行こう。そして、これらの材料を取って、これらの者が住む地を造ろう。
そして、わたしたちはこれによって彼らを試し、何であろうと、主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。
第一の位を守る者は付け加えられるであろう。また、第一の位を守らない者は、第一の位を守る者と同じ王国で栄光を受けることはない。さらに、第二の位を守る者は、とこしえに栄光をその頭に付け加えられるであろう。」
また、主は言われた。「わたしはだれを遣わそうか。」すると、一人が人の子のように答えた。「わたしがここにいます。わたしをお遣わしください。」また、別の者が答えて言った。「わたしがここにいます。わたしをお遣わしください。」そこで、主は言われた。「わたしは最初の者を遣わそう。」
すると第二の者は怒り、その第一の位を守らなかった。そして、その日、多くの者が彼に従った。』
(『アブラハム書』第3章22節〜28節)
サタンの計画
アブラハム書の3章には、地が造られたのちに贖い主が決定され、御父に背いた天使が地に落とされた事が記されています。
サタンとなった天使は『全人類すべてを贖い、一人も失われないようにする』と宣言しました。
彼の立案したこの計画は、一見すると素晴らしいものに映るかもしれません。
ですが、仮にサタンが贖い主として働いた場合、全人類すべてを救うために取る方法は二つしかありません。
それは、人から自由意志を奪うか、もう一つは人を罪のあるまま御父の御元に戻すかです。
これはどちらも神の計画にはないものでした。
わたしたちは成長して神に近づかなくてはなりません。
そのために自由意志が必要です。
人生の中で様々な経験を積み、喜びや苦難を知ることで成長できます。
サタンの計画はそれらを奪うものでした。
ですが、最初の者、すなわちヤハウェ(エホバ)は、『父よ、あなたの御心が行われ…ますように』と言って御父の計画を支持したのです。
ですが、この計画は自由意志の尊重があるが故、全人類を一人残らず救いにあずからせることはできません。
神に背くことを自らの意思で選択する者は、神といえども救うことがおできにならないのです。
そうした人々を一人でも増やすべく、サタンとその使いは日夜休む事なく人々を惑わし、地獄に落とそうとしています。
『この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落とされ、その使たちも、もろともに投げ落とされた。』
(『ヨハネの黙示録』第12章9節)
『そのため、人は肉においては自由であり、人のために必要なものは全て与えられる。そして人は、すべての人の偉大な中保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも、あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由である。悪魔は、すべての人が自分のように惨めになることを求めているからである。』
(『ニーファイ第二書』第2章27節)
肉体を持たない存在
聖典の中に記されている『悪魔』という存在は、大まかにいうと『かつて神の前で権威を持っていた一人の天使』を指します。
そして彼に従って天から落とされた者たちは、『悪魔に従う者』などと呼ばれ、あくまでも別個の存在です。
旧約聖書の原典である書物はヘブライ語と、ヘブライ語の方言であるアラム語で記されており、イザヤ書にある『黎明の子』をヘブライ語でカタカナ表記すると『ヘレル・ベン・サハル』となります。
彼の個人名は聖典には見当たらないのですが、おそらく彼の称号であると思われるこの『黎明の子』をラテン語に翻訳する時、『ルキフェル』あるいは『ルーキフェル』としました。
この語は光輝く者、もしくは光をもたらす者という意味になります。
あくまでもわたしの想像に過ぎませんが、イザヤが啓示によって預言した時、『黎明の子』という呼び名を主によって教えられたのかもしれません。
啓示はそれを受ける人によってさまざまな異なる形で現されるので、イザヤが言葉として受けたのか、あるいは見せられたものを『黎明の子』として表現したのかは不明です。
さらにそれを英語に訳して『ルシファー』という名称になりました。
わたしたちの教会でもサタン個人を指して『ルシフェル』と呼んでいます。
彼らは天地創造ののち、アダムが肉体を持って地上におかれる前に天から落とされたため、肉体を持っていません。
悪魔であるルシフェルとその使いは肉体を受けて現世での生活を体験する機会を与えられず、やがては永遠の罰の定めを受けます。
彼らは肉体を受けて神に近づく特権を持つわたしたちを憎み、すべての人々を欺いて神から遠ざけ、自分と同じように惨めにしようとしています。
『おお、神の知恵、神の憐れみと恵みよ。見よ、もしも肉体がもう二度と起き上がることがないとすれば、わたしたちの霊は、永遠の神の御前から落ちて悪魔となったあの天使に従うようになり、もはや起き上がることはない。
そして、わたしたちの霊は、あの天使のようになっていたに違いない。わたしたちは悪魔の使いである悪霊となって、神の御前から締め出され、偽りの父とともに、彼自身のように惨めな状態にとどまっていたに違いない。まことに、その者はわたしたちの始祖をだました者であり、光の天使であるかのように装い、人の子らをそそのかして人殺しをする秘密結社を作らせたり、あらゆる隠れた闇の業を行わせたりする者である。』
(『ニーファイ第二書』第9章8、9節)
あらゆる争いの父、偽りの父
少しややこしい話なのですが、そもそもサタンという語は『敵対するもの』『妨げるもの』『訴えるもの』を意味します。
聖書においては『敵』などを意味する普通名詞として使われます。
個人としての悪魔
前述のルシフェルは『神に敵対するもの』という意味において、固有名詞として『サタン』と呼ばれます。
あくまでも名詞ですので名称として使われているわけではありません。
つまり『サタン』という個人名で使われているわけではないのです。
ですが、ルシフェル個人を指して『サタン』と呼ぶ聖文は多くあり、彼に従って天から落とされた者たちは『悪霊』や『悪魔の使い』などと分けて呼ばれているようです。
ただ、聖文によっては、ルシフェルを指していると思われる箇所で『悪霊』と呼んでいる場合もあります。
彼自身肉体を持たない霊ですので、この表現が間違っているわけではありません。
『悪魔』と聞くとただ一人ではなく複数いるようなイメージを持つ方が多いのではないかと思いますが、聖典には『悪魔』=『ルシフェル』として書かれているものが複数あります。
『それから、左にいる人々にも言うであろう、「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。』
(『マタイによる福音書』第25章41節)
『そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。』
(『ヤコブの手紙』第4章7節)
『彼は天から落ちて、とこしえに惨めな状態になったので、全人類もまた惨めな状態にしようとした。そこで彼、すなわち悪魔であり、あらゆる偽りの父である、あの年を経た蛇は、エバに、「禁断の実を食べなさい。あなたがたは死ぬことがなく、善悪を知って神のようになるであろう」と言った。』
(『ニーファイ第二書』第2章18節)
人々のなかに争いを起こす
サタンは人々のなかにあらゆる形で争いを起こし、互いに相手に対して怒りを抱くように仕向けます。
争いと怒りは人の心を神から遠ざけることをよく理解しているためです。
『まことに、まことに、あなたがたに言う。争いの心を持つ者はわたしにつく者ではなく、争いの父である悪魔につく者である。悪魔は互いに怒って争うように人々の心をあおり立てる。
見よ、互いに怒るように人々の心をあおり立てるのは、わたしの教義ではない。このようなことをやめるようにというのが、わたしの教義である。』
(『ニーファイ第三書』第11章29、30節)
『しかし、おお、わたしの民よ、あなたがたの中に争いが起こらないように、また父のモーサヤが語った悪霊に従おうとすることのないように気をつけなさい。』
(『モーサヤ書』第2章32節)
滅びの子
サタンに従う人々でもいつか悔い改めを行うことができるならば、第二の死から免れる可能性はありますが、最後までサタンに従い続けるならば、その機会を失ってしまう事になります。
『彼らは激しい怒りの器であり、悪魔やその使いとともに永遠に神の激しい怒りを受けるように定められるからである。
この世でも来るべき世でも赦されることはないとわたしが言ったのは、彼らについてである。
それは、彼らが聖なる御霊を受けた後にそれを否定したため、また御父の独り子を否定したため、また独り子を自ら十字架につけて公に辱めたためである。
これらの者は、悪魔やその使いとともに火と硫黄の池の中に入る者であり、
また第二の死が何らかの力を持つ唯一の者であり、
まことに、主の激しい怒りによる苦しみを受けた後も、主の定められたときに贖われない唯一の者である。』
(『教義と聖約』第76章33節〜38節)
ひとつ注釈を入れますと、『第二の死が何らかの力を持つ者』とは、一度聖霊を受けたのちにそれを否定する人々をいいます。
この世で神の戒めを知らなかったために受け入れずに生活し、肉体の死を受ける人々を指しているわけではありません。
そういった人々はこの世を去ったのちに霊界で福音を受け入れる機会にあずかります。
そこで悔い改めを行うことで主の贖いによる恵みを受けられます。
ですが、聖典には永遠の苦しみを味わう者も存在することを記しています。
それが『滅びの子』です。
聖典には『滅び』と呼ばれる者が二人記されています。
ひとりはルシフェルです。
『また、私たちはこのことも見たので証する。すなわち、神の前で権威を持っていた神の一天使が、御父から愛されて御父の懐におられた独り子に背き、神と御子の前から落とされ、
そして、滅びと呼ばれた。もろもろの天は彼のために泣き悲しんだからである。彼は暁の子ルシフェルであった。』
(『教義と聖約』第76章25、26節)
もうひとりはアダムの息子、カインです。
『そこで、主はカインに言った。「なぜ憤るのか。なぜ顔を伏せるのか。
あなたは正しいことをしていれば、受け入れられる。もし正しいことをしていなければ、罪が門口で待ち伏せており、サタンはあなたを得ることを望んでいる。あなたがわたしの戒めに聞き従わなければ、わたしはあなたを引き渡し、彼の望みどおりになる。そして、あなたは彼を治めるであろう。
これから先、あなたは彼が言う偽りの父となる。あなたは滅びと呼ばれる。あなたもまた世に先立って存在していた。」』
(『モーセ書』第5章22節〜24節)
サタンであるルシフェルに従う者たちを滅びの子と呼びますが、彼らは大きくふたつに分類できます。
ひとつは前世でサタンに従って反逆したため、天から追放された者。もうひとつは、わたしたちと同じように肉体を受けてこの世に生まれることを許されていながら、サタンに仕え、神にことごとく背いた者です。
彼らには主の憐れみが及びません。彼らは、決して終わることのない苦痛に耐えなければならないとされています。
サタンの存在は必要なのか
サタンはわたしたち全人類を神から遠ざけ、自分と同じように惨めな状態にさせようとしています。
またサタンはあらゆる罪の根源だと聖典に記されています。
人類の祖であるアダムとエバをそそのかし、世界に死を植えつけたのも、もとを辿ればサタンの影響によるものです。
仮にこの世に人を惑わすサタンが存在しなければ、人々のなかには争いが起こらず、平和な状態を保てたのではないか、と考える人もいらっしゃるでしょう。
ですが、サタンが人々を誘惑する事でわたしたちは悪ではなく、正しいことを選択する機会を得られます。
『また、悪魔が人の子らを誘惑するのは必要である。そうでなければ、人の子らは自ら選択し行動する者とはなれない。苦いことを経験しなければ、甘いことを知ることができないからである。』
(『教義と聖訳』第29章39節)
わたしたちが神に近づくための成長を得るため、自らさまざまな場面で選択することを迫られます。
たとえその選択を誤り、苦難を経験することになったとしても、それはわたしたちの経験となり、成長の機会となりえるのです。
ただ、選択の過ちから心をかたくなにしてしまう事は、サタンに居場所を与えてしまう事にもなりえます。
わたしたちは、自分の心の中から悪を行おうとする思いを追い出す努力をする必要があります。
『そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。』
(『ヤコブの手紙』第4章7節)
『また、わたしの同胞よ、悪魔の誘惑に惑わされることなく、終わりの日に悪魔の手下になることのないように、絶えず祈りに心を配ることを、あなたがたに勧める。見よ、悪魔はあなたがたに決して良いものを報いとして与えないからである。』
(『アルマ書』第34章39節)
父なる神はわたしたちが神御自身に近づくための計画をお立てなったとき、わたしたちを成長させるためにあらゆることを選択させる必要があるとご存知でした。
そのために人を誘惑させる存在が必要だったのです。
さいごに
悪魔はこの瞬間も世界中で人々を誘惑し続けています。
彼らは休むことなく、ひとりでも多くの人を神から遠ざけ、最後の時に自分たちと同じ目に遭わせようと働いています。
ヨハネの黙示録などに『火と硫黄の燃えている池』が彼らの受けるべき報いである、と記されています。
象徴的なこの表現について、モルモン書の中に詳細が記されています。
『そこで、その者がもしも悔い改めず、神の敵である状態で死ぬならば、神の正義の要求が、その者の不滅の霊に強烈な罪の意識を起こさせる。そして、その罪の意識のために、その者は主の御前からしりごみし、またその胸は罪悪感と心痛と苦しみで満たされる。その罪悪感と心痛と苦しみは、炎がとこしえにいつまでも立ち上る、消すことのできない火のようである。
さて、わたしはあなたがたに言う。そのような者には憐れみは及ばない。したがって、その者の最後の状態は、決して終わることのない苦痛に耐えることである。』
(『モーサヤ書』第2章38、39節)
わたしたちは神の裁きを受ける時、すでに復活した後であるため不死不滅の体を持っています。
サタンに従い続けた人はその状態で自分が犯した罪と、神に背き続けた事実に対する激しい罪悪感と後悔を神の正義の要求により植えつけられ、それによって死ぬこともできず自分自身を責め続けるのです。
サタンや彼に従った悪霊たちはその人たちを見て嘲笑するでしょう。
自分たちと同じ境遇に陥れることに成功したからです。
『このことから、主の道を曲げる者の末路がわかる。また、悪魔は終わりの日には自分の子らを助けようとせず、速やかに地獄に引きずり込むということも、わたしたちに分かるのである。』
(『アルマ書』第30章60節)
多くの人々が福音を受け入れ、ふさわしい栄光を受け、神に近づき永遠に生き続ける祝福を与えられているのにも関わらず、最後までサタンに従ったがゆえに全く異なる境遇に置かれてしまうのです。
そして、その苦しみは終わることがありません。
これが『火と硫黄の燃える池』の正体です。
わたしももちろんそうですが、日々の生活の中で過ちや罪を犯してしまうことはあります。
できるならばその都度深く反省し、悔い改めを行い、罪の赦しを神に求めるべきです。
いつまでも悔い改めを先延ばしにするのは賢明ではありません。
主がいつ地上に再臨されるのか、その日は御父以外誰も知らないからです。
今回はここまでにしましょう。
聴いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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