導入
みなさんこんばんは、かいです。
聞いてくれている皆さんの時間を今、分けてくださっていることに心から感謝しています。
ありがとうございます。
前回は天使のひとりであるモロナイが、黙示録に記されている預言のとおり『完全な永遠の福音』をたずさえて地上にきたというお話をしました。
福音というと、聖書などに何度も言葉が登場しますが、具体的な意味などについては不明な部分もあるかと思います。
今回はそのあたりも含めてお話しします。
聖典、教会の出版物を参照しています。
福音とは
福音というと、一般的には『良い知らせ』という意味合いを持つとされています。
大きい括りで言うならその通りなのですが、少し詳しく言うと、『イエス・キリストの贖罪によって可能になった、神の救いの計画』を言います。
さらに詳しく説明するため、『ニーファイ第3書』第27章13節〜21節を引用します。
これは、十字架上で殺されたイエスが復活した後、紀元約34年頃、アメリカ大陸に住む『ニーファイ人』と言う民族の前に姿を現された時のことを記録したものです。
この中で『わたし』と言っているのがイエスです。
『見よ、わたしはあなた方に、わたしの福音について告げた。
わたしがあなたがたに告げた福音とは、次のとおりである。
すなわち、父がわたしを遣わされたので、わたしは父の御心を行うために世に来た。
父は、わたしが十字架に上げられるようにと、わたしを遣わされた。
十字架に上げられた後で、わたしはすべての人をわたしのもとに引き寄せた。
わたしは人々によって上げられたが、そのように人々は、父によって上げられてわたしの前に立ち、自分の行いが善いか悪いかによって、行いを裁かれるのである。
このために、わたしは上げられたのである。
それで、父の力によってすべての人をわたしのもとに引き寄せ、彼らが各々の行いに応じて裁かれるようにするのである。
さて、悔い改めて、わたしの名によってバプテスマを受けるものは誰であろうと、満たされるであろう。
そして、最後まで堪え忍ぶならば、見よ、わたしはその者を、わたしが立って世の人々を裁くその日に、わたしの父の御前で罪のない者としよう。
また、最後まで堪え忍ばない者は、切り倒されて火の中に投げ込まれ、父の正義のゆえに、そこから二度と戻る事ができない。
これは父が人の子らに告げられた御言葉である。
父は御自分の正義のゆえに、御自分が告げられた御言葉をことごとく成就される。
父は偽らず、ご自分の御言葉をことごとく成就される。
清くない者は、決して父の王国に入る事ができない。したがって、信仰を持ち、罪をすべて悔い改め、最後まで忠実であることによって、わたしの血により衣を洗われた者のほかには、父の安息に入る者はいない。
さて、戒めは次のとおりである。
地の果てに至るすべての者よ、悔い改めて、わたしのもとに来て、わたしの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊を受けて聖められ、終わりの日にわたしの前に染みのない状態で立てるであろう。
まことに、まことに、あなたがたに言う。以上がわたしの福音である。
あなたがたは、わたしの教会で行わなければならないことを知っている。
わたしがするのを見たその行いを、あなたがたもしなさい。
わたしが行うのを見たそのとおりのことを、あなたがたも行いなさい。』
何となくわかりましたでしょうか。
さらに後になって1831年1月5日、ニューヨーク州フェイエットにてジョセフ・スミスを通して与えられた啓示がありますので、こちらも紹介します。
『教義と聖約』第39章から引用します。
『そして、これこそわたしの福音である。
すなわち、悔い改めと、水によるバプテスマ、その後、火と聖霊によるバプテスマがある。
聖霊すなわち慰め主は、すべてのことを示し、王国にかかわる平和をもたらす事柄を教える。』
ここで理解できるのは、神の王国に入るための条件として、自身の罪や行いを悔い改めること、次に水によって行うバプテスマを受けるという事です。

バプテスマという儀式も私たちの教会とその他の教会とでは形が異なっています。
私たちの教会では福音の回復が行われた際、イエスが地上でおられた当時の儀式が全て回復されました。
バプテスマの様式もそうです。
さて、最初に受ける必要のある『水によるバプテスマ』とは何を意味しているのでしょう。
水によるバプテスマ
まず水によるバプテスマですが、何のために行うのでしょうか。
ほかの教会とは様式が異なることは前述しましたが、わたしたちの教会では『権能を持つ者』によって儀式が執行され、全身を水に沈める形をとります。
そしてバプテスマを行う前に、儀式を希望するものにはイエス・キリストを信じる信仰と悔い改めが求められます。
これは福音の最初の儀式です。
そして、私たちが神の王国に入るためには必要なことです。
イエスが地上でおられたとき、彼もヨハネの手でバプテスマを受けました。
『マタイによる福音書』第3章13節〜15節を引用します。
『そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。
ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。
しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。
そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。』
イエスがバプテスマを受けられた事について、さらに詳しく記述されているものがあります。
『ニーファイ第二書』第31章5節から12節までを引用します。
『さて、神の子羊が聖なる御方であっても、あらゆる義を満たすために水でバプテスマをお受けになる必要があるとすれば、おお、聖くないわたしたちがバプテスマを、すなわち水でバプテスマを受けることは、さらに必要ではないだろうか。
そこで、わたしの愛する同胞よ、神の子羊は水でバプテスマをお受けになることによって、どのようにあらゆる義を満たされたのか、わたしはあなたがたに尋ねたい。
あなたがたは子羊が聖くあられたことを知らないのか。
しかし子羊は、聖いにもかかわらず、肉においては御父の前にへりくだることを人の子らに示される。
そして、御父の戒めを守ることについて御父に従順であることを、御父に証明されるのである。
それゆえ、子羊が水でバプテスマをお受けになると、聖霊が鳩の形を取って子羊の上に降って来られた。
そしてまた、それは人の子らに、道が細くて彼らの入る門が狭いことを示しており、子羊は彼らの前に模範を示されたのである。
子羊は、「わたしに従いなさい」と人の子らに言われた。
それゆえ、愛する同胞よ、進んで御父の戒めに従わないで、わたしたちはイエスに従う事ができるだろうか。
御父は言われた 。「悔い改めよ。悔い改めよ。わたしの愛する子の名によってバプテスマを受けよ。」
また、御子の声がわたしに聞こえて言われた。「父は、わたしの名によってバプテスマを受ける者に、わたしに授けてくださったと同じように聖霊を授けてくださる。それゆえ、わたしに従い、わたしが行うのを見たそのことを、あなたがたも行いなさい。」』
そして12節に、『〜聖霊を授けてくださる。』とあります。
この部分が『火と聖霊によるバプテスマ』です。
火と聖霊によるバプテスマ
同じくニーファイ第二書第31章13節から引用します。
『したがって、わたしの愛する同胞よ、もしあなたがたが十分に固い決意を持って御子に従い、神の前に決して偽善と欺きを行うことなく誠意を持って行動し、罪を悔い改め、バプテスマによって、まことに、あなたがたの主であり救い主である御方に従い、主の言葉のとおりに水に入り、バプテスマを受けることによって、キリストの名を喜んで受けることを御父に証明するならば、見よ、そのとき、あなたがたは聖霊を受ける。
すなわち、そのとき火と聖霊によるバプテスマを受ける。
するとあなたがたは天使の言葉で語り、イスラエルの聖者に賛美の声を上げる事ができるのである。
わたしはそれを知っている。』
では、「聖霊を受ける』とは何なのでしょうか。
『聖霊』とは聖典の中で御霊、神の御霊、慰め主、助け主と呼ばれる事があります。
御父、御子とともに『神会』を構成する御方で、呼び名の通り霊であり、現在は骨肉の体を持っておられません。
『神会』をまず説明します。
わたしたちの聖典のひとつである『高価な真珠』の中に、信仰箇条というものがあります。
そのひとつめがこれです。
『わたしたちは、永遠の父なる神と、その御子イエス・キリストと、聖霊とを信じる』。
一般に『父と子と聖霊』と呼ばれるこの御三方はそれぞれ別個の存在であり、それぞれが独立した神でありながら、彼らは目的と教えにおいて完全に一致、調和し、一つであられます。
この御三方で構成されるのが『神会』です。
神会の第三の御方が聖霊です。
聖霊は救いの計画の中でいくつかの重要な役割を果たされます。
悔い改めてバプテスマを受けた人を聖められる、というのがそのひとつです。
『マタイによる福音書』の中でイエスがバプテスマを受けられたのち、聖霊が降ってこられる記述があります。
第3章16節を引用します。
『イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊が鳩のように自分の上に降ってくるのを、ごらんになった。』
ちなみに聖霊が鳩の姿になってきたわけではありません。
鳩のしるしは聖霊を証するものとして、この世が創造される前に定められていました。
バプテスマのヨハネはこのしるしを見たことによって、イエスをメシヤと認めました。
『ヨハネによる福音書』第1章32〜34節を引用します。
『ヨハネはまた証をして言った。「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをお遣わしになったその方が、わたしに言われた、「ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである。」
わたしはそれを見たので、この方こそ神の子であると、証をしたのである。」』
また聖霊はすべてのことについて真理を明らかにされます。
『聖霊を受ける』とは、バプテスマを受けたのち、権能を持つものの按手によって授けられる賜物を言います。
このことについては使徒行伝などに記されています。
使徒行伝第2章38節より引用します。
『すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪の赦しを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」』
按手を受けた人が常にふさわしければ、聖霊を常に伴侶とする権利を持ちます。
この按手というのは、バプテスマを受けた直後に行う必要があります。
人は権能を持つものからバプテスマを受けることで清められますが、聖霊は清い状態の人にしか降られないからです。
つまり、聖霊を常に伴侶とするためには聖い状態を保ち続ける必要があるということです。
聖霊を伴侶とする
聖霊を伴侶とする、という言葉をひらたく置き換えると、聖霊がともにいてくださる、ということです。
このことについて、デビッド・A・べドナー長老の話を引用します。
『教会の新しい会員を確認し、聖霊の賜物を授ける儀式は、簡素でありながらも深淵です。……この儀式が簡素なために、わたしたちはその大切さを見逃してしまうかもしれません。
「聖霊を受けなさい」という言葉は受け身でいるよう言い渡すものではありません。むしろ、神権の命令、すなわち単に作用されるものになるのではなく作用する者となるように促す、権威ある勧告なのです。
わたしたちの頭に手が置かれてあの言葉が発せられれば、それだけで聖霊が生活の中で働いてくださるわけではありません。
この儀式を受けるとき、わたしたち一人一人はほんとうに『聖霊を受け』、それに付随する霊的な賜物を得られるように望み、求め、努力し、ふさわしい生活をするという神聖で途切れることのない責任を受けるのです。
「ある人に贈り物が与えられても、彼がそれを受け取らなければ、それは彼に取って何の益があるだろうか。見よ、彼は与えられるものを喜ばず、その贈り物の贈り主をも喜ばない。』
彼の話からもわかるように、聖霊の賜物を受けたとしても、ふさわしい状態を保つためにはある種の努力が必要です。
さらに続きを引用します。
『聖霊を伴侶として招くには様々な方法があります。聖約をかわして守ること、個人や家族で誠心誠意祈ること、熱心に聖文を研究すること、家族や友人との適切な関係を強めること、徳高い思いや行動、言葉遣いをしようと努力すること、家庭や聖なる神殿、教会で礼拝することなどです。
反対に、聖約や決意を簡単に破ること、祈りと聖文研究を怠ること、ふさわしくない思いや行動、言葉遣いは御霊を退かせたり、まったく来ないようにしたりしてしまいます。 』
(『聖霊を受けなさい』デビッド・A・べドナー 2010年10月総大会より)
デビッド・A・べドナー長老の話からも推察できるように、聖霊を一度受けると、無条件で常にともにいてくださるわけではありません。
むしろ、過ちを犯すなどして聖霊が退いたとしても、行動や思いを改めれば再び御霊の影響を受けることは可能です。
『火と聖霊』というふうに重ねて表現しますが、火は清め、純化、聖化の象徴でもあります。
私たちは何度も悔い改めを行い、その都度火のバプテスマを受けることで精錬され、聖められるのです。
『教義と聖約』第128章24節を引用します。
『まことに、主の大いなる日は近づいています。
主の来られる日には、だれが堪えられるでしょう。
主が御姿を現されるときに、だれが立っていられるでしょう。
主は精錬する者の火のようであり、布さらしの灰汁のようです。
主は銀を精錬し清める者として座につき、レビの子らを清め、金銀のように彼らを清めて、彼らが義によってささげ物を主にささげられるようにされます。
したがって、わたしたちは教会として、また民として、また末日聖徒として、義をもってささげ物を主にささげましょう。
また、主の聖なる神殿が完成するとき、私たちの死者の記録を載せた、そのまま受け入れるに値する書をそこにささげましょう。』
さいごに
福音というのはそもそも小難しいものではありません。
ただ、神から与えられた戒めを従順に守りながら日々の生活を送るのは明確な意思とある程度の自律が必要です。
『ヨハネの第一の手紙』第5章にこのような聖句があります。
『神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。
そして、その戒めはむずかしいものではない。』
次回はバプテスマ、按手などを行うものが持つ権能についてお話しします。
聞いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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