導入
みなさんこんばんは、かいです。
聞いてくれている皆さんの時間を今、分けてくださっていることに心から感謝します。
ありがとうございます。
ユダヤ人、アラブ人たちの祖といわれるアブラハムが主から受けた大いなる祝福、『アブラハムの聖約』とはいったいどのようなものなのか。
この聖約は地上に住んでいるわたしたち全員にとって、無関係ではありません。
わたしたち末日聖徒イエス・キリスト教会の会員はこの聖約を成し遂げるために様々な奉仕をしていると言って過言ではありません。
今回もアブラムの生涯を追ってお話しします。
主の助け
さて、前回少しお話ししたように、アブラムはカルデヤのウルの地、ポテパルの丘にあった異教の神々の祭壇で生贄としてささげられようとしていたところを主の天使によって救われました。
ところで、聖典を読むときに少しややこしいのが、預言者たちが経験したことや示現などに登場するのが、主御自身なのか、天使たちであるのかということです。
この話を進めると三位一体にまで話が及ぶのですが、まず私たち末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は三位一体説を信じていません。
以前お話ししましたように、神は御一方ではなく、御父、御子、聖霊なる神がそれぞれ独立した存在として居られると信じています。
彼らは目的と教えにおいて完全に一致、調和し、その意味において『ひとつ』なのです。
このことについてイエスが述べている聖文があります。
『わたしはもうこの世にいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜った御名によって彼らを守ってください。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。』
(『ヨハネによる福音書』第17章11節、22節)
わたしたちは神が一致して人のために働いておられるように、わたしたち自身も思いと行いを一致させるように努めなければなりません。
話を戻して、これを大前提として話を進めます。
例えば聖文の中で御子は、自身が御父であるように振る舞うことがあります。
これは彼が、御父から全ての権能を与えられているためです。
例を一つ挙げます。
『わたしの子モーセよ、わたしはあなたにひとつの業を用意している。あなたはわたしの独り子にかたどられている。わたしの独り子は、現在も将来も救い主である。彼は恵と真理に満ちているからである。しかし、わたしのほかに神はおらず、すべてのものはわたしとともにある。わたしはそれらすべてを知っているからである。』
(『モーセ書』第1章6節)
一見すると、ここでモーセに語っているのは御父のように感じます。
「わたしの独り子」という言葉が出ているためです。
「わたしの」とある以上、「わたし」は「独り子」の親ということです。
つまりこの場合御父を意味します。
ですが、まず大前提として御父はアダムの堕落以来、人の子らの前に御姿を現されたことがほぼありません。
例外は少なく、使徒行伝の中でステパノが殉教するとき、福音の回復のためにジョセフ・スミスに御子を紹介された時、そしてのちにジョセフ・スミスとシドニー・リグドンの二人に御姿を現された時のみです。
御父の声を聞いたという記録はありますが、それでも数えるほどです。
これらの前提から、モーセ書の中でモーセに語りかけておられるのは御父ではなく、権能を与えられた御子です。
この例と同じように、主から権能を与えられた天使が主であるかのように人に語ることがあります。
また記録者も「主」と呼んだり「主の天使」と呼んだり様々な場合がありますので、これらの事例が聖書をややこしくしているのかもしれません。
モルモン書を含む聖典を読めばある程度の法則性を見つける事はできますが、それ以上のことについてはすでに啓示によって知識を与えられた方の講話や記録などから学ぶ必要があります。
また、何より個人の祈りによって聖霊に尋ねることが大切になります。
では、『聖霊に尋ねる』とはなんでしょうか。
聖霊の力によって知る
『モルモン書』は古代の民が書き連ねてきた版を編纂したものなのですが、その最後の書である『モロナイ書』のさらに最後の章、第10章にモロナイからの勧告があります。
このモロナイはジョセフ・スミスの前に天使となって現れた人物です。
『さて、わたしモロナイは、自分がよいと思うままに少し書き記す。わたしは同胞であるレーマン人に書き記す。キリストの来臨のしるしが現れてから、すでに四百二十年以上たったことを知ってほしい。
わたしはあなたがたへの勧めとして少しの言葉を述べた後、この記録を封じることにする。
見よ、わたしはあなたがたに勧めたい。あなたがたにとってこの記録を読むことが、神の知恵にかなうようであれば、あなたがたはこれを読むときに、アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで、主が人の子らにどれほどの憐れみをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。
また、この記録を受けるとき、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。
そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。』
(『モロナイ書』第10章1節〜5節)
聖典の理解を深め、真理を求めるときに絶対に欠かせないのが聖霊の存在です。
聖霊の力によって神は、わたしたちが誠心誠意問うことに対して答えてくださるのです。
御父と御子を証し、すべてのことの真理を人の子らに明らかにすることが、聖霊の重要な役割のひとつです。
アブラムとエジプト
さて、アブラムが『アブラハム』と名前を改めたのは彼が99歳の時のことであると創世記に記されています。
彼は正妻サライとの間で子供がおらず、妻のつかえめであるハガルというエジプト人の女性との間に男児がいました。
この当時、つかえめとの間にできた子供であっても正妻が母となる習わしがあったのですが、創世記によるとつかえめハガルが妊娠したことにより女主人である正妻を軽んじるようになったということでした。
そのためサライはハガルにつらく当たり、ハガルは身重の体で逃げ出します。
その後主の天使が彼女に現れ、アブラムの元に帰るよう促します。
結局ハガルは男児イシマエルを産みました。
この時アブラムは86歳であったとされています。
それから10年以上が経過し、アブラムの前に主が現れます。
そしてアブラムの子孫に祝福を約束し、アブラムの名をアブラハムに、正妻サライの名をサラと改めるよう命じた、ということです。
アブラハム書の出自
ところでわたしたちの聖典のひとつである『高価な真珠』の中に、『アブラハム書』というものがあります。
これは昔の族長であったアブラハム自身の手によって記されたものですが、教会外の方がわたしたちの教会、ひいてはジョセフ・スミスを批判、攻撃する原因のひとつとしても有名かもしれません。
この理由について話すと長くなりますし、この場で完全に理解していただくのは難しいので、また別の機会を設けるとして、ここではアブラハム書の出自を簡単にお話しします。
1835年の夏、マイケル・チャンドラーという名の興行主がオハイオ州カートランドの教会本部を訪れました。
彼は『エジプトの遺物』と題する見世物を合衆国東部のいくつかの町で興行しており、エジプト人の墓の中から発見された何百ものミイラのうち数体と、古代のパピルスの巻物を展示していました。
このチャンドラー氏がジョセフ・スミスのことを耳にし、遺物を購入するのではないかと目論んでカートランドへとやって来たようです。
ジョセフはミイラより巻物に興味を惹かれました。
聖典の中にはエジプトが深く関わっていることがいくつか記されていますし、モルモン書を記したリーハイの子孫たちも『改良エジプト文字』という文字で記録をしていたからです。
チャンドラー氏はジョセフに対し、巻物を持ち帰って一晩じっくり調べることを許可しました。
そしてその夜、巻物を調べたジョセフは、その中にアブラハムの重要な教えが含まれている事に気づきました。
ちなみにこの当時、エジプトという未知の文明を持った国がある、と一般的に知られ始めたばかりで、ジョセフはもちろんエジプトの文字など読めません。
彼がどうやってエジプト文字を解読したのか、その記録は多く残されておらず、ジョセフたちがパピルスの研究をするのを目にした人々は、啓示によって与えられたものであると信じていました。
初期の聖徒であるジョン・ホイットマーは『聖見者ジョセフはこれらの記録を実際に目にし、イエス・キリストの啓示によってこれらの記録を翻訳することができました』と述べています。
翌日ジョセフはチャンドラー氏に、巻物を譲ってくれるように頼みました。
チャンドラー氏はミイラとセットで、2,400ドルを提示しました。
この当時、教会員たちはカートランドに神殿を建立するための資金繰りに大変苦労しており、またカートランドにはお金を貸してくれる人はほとんどいませんでしたが、ある教会員のグループがなんとかお金をかき集め、これらを購入したようです。
現在、ジョセフ・スミスが所持していたパピルスの断片と、その他の遺物からの模写が『高価な真珠』に載っています。
当時実際にパピルスを目撃した人の証言によると、『長い巻物』または『複数の巻物』と述べており、これらの巻物のどこかにアブラハム書として翻訳した部分があったと思われます。
アブラハム書に記された記録
さて、アブラハム書には創世記に記されたアブラムの記録よりも詳細なものが含まれています。
それらを引用してアブラムの旅を紹介します。
ちなみに旧約聖書の記述によるとアブラハムは175歳で亡くなったとあります。
アブラハム書が、彼が何歳の時に記したものなのかは不明ですが、その内容と語り口から彼の生涯の最後の方であったことはほぼ間違いないでしょう。
そのため、この書の中ではアブラムという名前は出てきません。
すでにアブラハムと改名されているためです。
ややこしくなるのでここからは『アブラハム』と統一しますね。
アブラハムの父テラ
第九回で少し触れたように、アブラハムはウルにあるポテパルの丘の祭壇で生贄としてささげられそうになりました。
このとき主によって助けられたのですが、そもそもアブラハムは父テラによって生贄にされかけました。
『さて、エルケナの祭司が打たれて死んだ後、その地に飢饉があるであろうとカルデヤの地についてわたしに言われたことが成就した。
このために、飢饉がカルデヤの全地に広がった。すると、わたしの父はその飢饉のためにひどく苦しみ、わたしの命を取ろうとしてわたしに対して企てた悪事を悔いた。』
(『アブラハム書』第1章29、30節)
テラが偶像崇拝を受け入れた理由として、エジプトの王パロが偶像崇拝を行なっていたことが挙げられます。
『さて、パロは神権の権利を持つことのできない血統の出であったが、パロたちは、ハムを通してノアからそれを受けたと自ら主張した。そのために、わたしの父は彼らの偶像礼拝に惑わされたのである。』
(『アブラハム書)第1章27節)
この当時からテラは神権についてある程度の知識を持っていたのかもしれません。
パロが王として君臨できる理由そのものが『神権を保持していること』であったためです。
ですがアブラハムは主から教えてもらうまで神権については知りませんでした。
ちなみにパロはカナンの血統、カナンはハムの血統であり、ハムは自身が行った悪事のために父ノアからのろわれ、神権を子孫に継がせることができませんでした。
このため、パロは本来神権を持っていないのです。
アブラハム書第1章30節で記されている飢饉がひどくなり、アブラハムたちはカナンの地を目指して旅立ちます。
そしてその途中にあるハランという土地でテラは留まりました。
この地でもウルと同じ偶像崇拝が行われていたためです。
結局、テラは209歳で亡くなるまでこのハランの地に住みました。
アブラハムの聖約
アブラハムはウルに住んでいたときに妻サライを娶りました。
その後、アブラハムは啓示を受けウルを出ます。
『さて、主はわたしに言われた。「アブラハム、あなたは国を出て、親族と別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」
そこで、わたしはカルデヤのウルの地を去り、カナンの地に向かった。わたしは兄弟の子ロトとその妻、及びわたしの妻サライを連れて出て行った。わたしの父も、わたしたちがハランと名付けた地までわたしについて来た。』
(『アブラハム書』第2章3、4節)
この後テラはハランの地で偶像礼拝に戻り、ハランの地でその生涯を終えます。
アブラハムは主から、甥にあたるロトを連れてハランを出るように命じられます。
このときにアブラハムは、主から祝福を受けました。
『わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを計り知れないほど祝福し、あなたの名をすべての国民の間で大いなるものとしよう。あなたはあなたののちの子孫にとって祝福の基となり、彼らは全ての国民にこの務めと神権を携えて行くであろう。
わたしはあなたの名によって彼らを祝福しよう。この福音を受け入れるすべての者はあなたの名によって呼ばれ、あなたの子孫と見なされ、立ち上がってあなたを父としてたたえるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべての氏族は、あなた(すなわち、あなたの神権)によって、また、この権利はあなたによって続くという約束をわたしはあなたに与えるのであなたの子孫(すなわち、あなたの神権)によって、またあなたののちの子孫(すなわち、あなたの神権)によって、またあなたの後の子孫(すなわち、文字どおりの子孫、肉体の子孫)によって、救いの祝福すなわち永遠の命の祝福である福音の祝福を授けられるであろう。」』
(『アブラハム書』第2章9〜11節)
ここで語られているのがアブラハムの聖約です。
平たく言うと、『福音を受け入れるものはアブラハムの血族でなくてもアブラハムの子孫とみなされ、永遠の命の祝福を授けられる』という事です。
つまり福音を受け入れる事で人種、性別など一切関係なく『イスラエルの家』の者とみなされます。
『あなたはあなたののちの子孫にとって祝福の基となり』とは、アブラハムが受ける祝福、すなわち永遠の命の祝福がアブラハムの子孫たちにも授けられる、という意味です。
さいごに
以前お話ししたように、『イスラエルの集合』は地上に住むすべての人に関わる神の業です。
古代の預言者はイスラエルの家の者とそうではない者、すなわち異邦人を栽培されたオリーブの木と、野生のオリーブの木に喩えました。
次回はこのお話と、永遠の命の祝福についてお話しします。
聞いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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