導入
みなさんこんばんは、かいです!
クリスチャンの人々は『イエス・キリスト』を信じる信仰をもっているわけですが、イエスにはさまざまな呼び名、称号があります。
その中のひとつである『贖い主』について焦点を当てます。
贖い主という呼び名は、古代の預言者たちもその預言の中で用いていました。
イエスはなぜ贖い主と呼ばれるのか。
イエスが成し遂げた『贖罪』とはなんなのか。
できるだけわかりやすくお話します。
祈りのススメ
この記事内にはわたしたちが所属する末日聖徒イエス・キリスト教会の聖典である新約、旧約の聖書とモルモン書、教義と聖約、高価な真珠の中から聖句を引用しています。
また総大会と呼ばれる教会指導者たちの勧告などのお話からも引用する場合があります。
クリスチャンである方もそうでない方も、聖句を読むとき、以下のことに注意を払っていただけましたら幸いです。
『見よ、わたしはあなたがたに勧めたい。あなたがたにとってこの記録を読むことが、神の知恵にかなうようであれば、あなたがたはこれを読むときに、アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで、主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。
また、この記録を受ける時、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。
そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。』
(『モロナイ書』第10章3節〜5節)
贖いとは
贖い、贖うとは、代価を払って人を束縛の境遇から自由にするように、人を解放したり、買い取ったり、人のために賠償をしたりすることを言います。
キリスト教界において、贖いという言葉は、イエス・キリストの贖罪と罪からの解放を指します。
イエスの贖罪は、全人類を肉体の死から贖います。
つまり、肉体の死を受けたのち、全人類が復活を果たすと言うことです。
復活するには順番が定められており、一時にすべての人が復活するわけではありませんが、この世でどのような残忍な悪事を行なった者であっても例外なく復活します。
さらにイエスの成し遂げた贖罪により、キリストを信じる信仰をもって悔い改める人は、霊の死からも贖われます。
『贖う』という言葉は聖典の中に何度も出てきます。
いくつかを引用して紹介します。
『ヤコブよ、イスラエルよ、これらのことを心にとめよ。あなたはわがしもべだから。わたしはあなたを造った、あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。
わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。
天よ、歌え、主がこのことをなされたから。地の深き所よ、呼ばわれ。もろもろの山よ、林およびその中のもろもろの木よ、声を放って歌え。主はヤコブをあがない、イスラエルのうちに栄光をあらわされたから。』
(『イザヤ書』第44章21節〜23節)
『彼らは陰府に定められた羊のように死が彼らを牧するであろう。彼らはまっすぐに墓に下り、そのかたちは消えうせ、陰府が彼らの住まいとなるであろう。
しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。』
(『詩篇』第49篇14、15節)
上に書きましたが、『霊の死』について少し説明します。
霊の死とは
霊の死とは、神とその影響からの分離をいいます。
聖典の中では『第二の死』と呼んだりします。
とはいえこの言葉、意味は何となくわかるような、わからないような感じです。
例えば、サタン(ルシフェル)とその使いたちは神に逆らい、天から投げ落とされた時に霊の死を受けています。
『そして、アダムは悪魔に誘惑された。見よ、悪魔はアダムの前にいた。悪魔は、「わたしにあなたの誉れを与えてください」と言って、わたしに背いた。彼の求めた誉れはわたしの力である。また、彼は天の衆群の三分の一を、彼らの選択の自由によってわたしから背き去らせた。
そして、彼らは落とされて、悪魔とその使いになった。
見よ、初めから彼らのために用意された場所がある。その場所は地獄である。』
(『教義と聖約』第29章36節〜38節)
霊の死はアダムの堕落によって世にもたらされました。
モーセ書から引用します。
『エノクは彼らに言った。「アダムが堕落したので、わたしたちは存在しています。そして、アダムの堕落によって死が生じ、わたしたちは不幸と災いを受ける者とされているのです。
まことに、サタンは人の子らの中にやって来て、彼を拝むように誘惑します。そして、人々は肉欲や官能におぼれ、悪魔に従う者となって、神の御前から締め出されています。』
(『モーセ書』第6章48、49節)
ここでは、霊の死について『悪魔に従うことで神の御前から締め出される』と書かれています。
つまり、『霊の死』は肉体の死とは異なり、この世で生きている間にも受けるわけです。
このことについて記してある複数の聖句があります。
『欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。』
(『ヤコブの手紙』第1章15節)
ここに書かれている『死』は肉体の死ではなく、霊の死のことです。
『富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。』
(『テモテへの第一の手紙』第6章9節)
ヤコブの手紙にも、テモテへの手紙にも、欲を制御できなくなることが霊の死を生み出すきっかけになることが書かれています。
そして、人々が際限なく欲を持ち続ける原因を作るのがサタンです。
モーセ書に『悪魔に従う者となって、神の御前から締め出される』と書かれている理由がこれです。
とはいえ人は一朝一夕に霊の死を受けるわけではありません。
サタンの誘惑に従い続ける事で、徐々に神から遠ざけられ、いずれは霊的に死ぬことになります。
さらに、『霊の死』は肉体の死の後にも起こり得ます。
古代から預言者達は、人々がこの霊の死を受けることのないように何度も勧告してきました。
『さて見よ、わたしはあなたに言う。そのときに死がやって来る。第二の死、すなわち霊の死がやって来る。それは、肉体の死に関して罪のあるまま死ぬ者が霊の死をも受ける時である。まことにその人は、義にかかわることについて死ぬのである。』
(『アルマ書』第12章16節)
黙示録にも霊の死についての記述があります。
『しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、呪いをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』
(『ヨハネの黙示録』第21章8節)
第一の復活にあずからない
第二の死を受ける人々について説明された聖句を紹介します。
『それゆえ、主なるわたしは言ってきた。すなわち、恐れる者、信じない者、全て偽りを言う者、偽りを好んで行う者、淫らな行いをする者、魔術を使う者は、火と硫黄の燃える池で報いを受ける。これが第二の死である。
まことに、わたしは言う。彼らは第一の復活にあずからない。』
(『教義と聖約』第63章17、18節)
上に引用した聖句にありますように、霊の死を受ける者は『第一の復活』にあずからないと断言されています。
この第一の復活については黙示録に説明があります。
『また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。』
(『ヨハネの黙示録』第20章4節〜6節)
つまり霊の死を受ける人々は福千年と呼ばれる期間は復活することができず、霊の状態にとどまります。
そして福千年ののち復活を果たしますが、最後の裁きの座で罰の定めを受ける、とあります。
第一の復活にあずかる者とそうではない者について書かれた聖句を紹介します。
『善を行った人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。』
(『ヨハネによる福音書』第5章29節)
生前悪をおこなった人々は地獄と呼ばれるところで、福千年の期間が終わるまで復活を待つことになります。
余談ですが、『地獄』という言葉は二つの意味で用いられます。
一つは、現世において不従順であった人々が霊界で一時的にとどまる場所を指します。
ここで霊たちは福音を教えられ、悔い改めたのちに、ふさわしい栄えの階級に復活します。悔い改めないながらも、滅びの子とならない者は、福千年の間地獄にとどまらなければなりません。
この苦しみを受けたのち、彼らは星の栄えの栄光に復活します。
もう一つは、イエス・キリストの贖罪によって贖われない者が永久に止まる場所を指します。
この地獄は聖句にある『汚れたまま』の者のためにあります。
『律法を破って律法に従わず、自らのために律法になろうとし、罪の中にとどまることを望み、そして完全に罪の中にとどまるものは、律法によっても、また憐れみや公正、公平によっても聖められることはあり得ない。それゆえ、彼らはなお汚れたままでいなければならない。
また、別のラッパが鳴り響くのは、第四のラッパで、このように言う。「あの大いなる終わりの日まで、すなわち最後まで残る者たちの中に、なお汚れたままの者が見いだせる。」』
(『教義と聖約』第88章35節、102節)
ここはサタンとその使い、ならびに滅びの子、すなわち御父から御子を示された後に御子を否定した者たちが永遠に住む場所です。
霊の死からの贖い
キリストが果たした贖いは人を霊の死からも救いますが、そのためには条件があります。
それが悔い改めです。
悔い改めてまことに正しい生活をするように、現代においても預言者は人々に勧告をしています。
この勧告は、アダムが造られて堕落した時から現在まで、預言者の口を通して与えられています。
人はさまざまな誘惑を受けますが、それらを跳ね除けることが実に困難な場合が多いからです。
サタンから誘惑を受け、神の前に罪を犯してしまうことでそれまでの努力が全てダメになってしまう訳ではありません。
犯してしまった罪や背きを反省し、心から悔い改めることで何度でもやり直せます。
霊の死を受けるのは、最後まで悔い改めない人々です。
『まことに見よ、この死は復活をもたらし、第一の死、すなわちあの霊の死から全人類を贖う。全人類は、アダムが堕落したことによって主の御前から絶たれているので、現世の事柄に関しても霊的な事柄に関しても、ともに死んだと考えられているからである。
しかし見よ、キリストの復活は人類、まことに全人類を贖って主の御前に連れ戻す。
そして、それは悔い改めの条件を果たし、悔い改める者は、切り倒されて火の中に投げ込まれることはないが、悔い改めない者は皆、切り倒されて火の中に投げ込まれる。そしてこれらの者には、再び霊の死、まことに第二の死が及ぶ。彼らは義にかかわる事柄に関して再び絶たれるからである。
だから、あなたがたは悔い改めなさい、悔い改めなさい。さもなければ、あなたがたはこれらの事柄を知っていて行わないので、罪の宣告を受けることになり、またこの第二の死に落とされることになる。』
(『ヒラマン書』第14章16節〜19節)
上に引用した聖句には少し注釈が必要になります。
最初に登場する『第一の死』を霊の死と呼んでいます。
この理由は、アダムの背きによって人類は『主の御前から絶たれていること』によるものです。
続く聖句に『キリストの復活は人類、まことに全人類を贖って主の御前に連れ戻す』とあります。
つまり、イエスの贖罪によって人は贖われ、アダムの背きによって生じた『第一の死(第一の霊の死)』は悔い改めを条件としてわたしたちには及ばないのです。
ですが、最後まで悔い改めない人々は第二の死を受けることになります。
イエスが地上に生誕し、贖罪の業を成し遂げたことで全人類が第一の死から贖われたにも関わらず、悔い改めを拒むことで神から罪の宣告を受けます。
だから、義にかかわる事柄に関して『再び』絶たれると記されているのです。
さいごに
イエスが成し遂げた『贖い』は、悔い改めと彼を信じる信仰を持つことで、全人類が完全な肉体を持って復活し、父なる神の御許に戻ることを可能にしました。
彼を信じる信仰には様々な戒めを守ることや儀式が伴いますので、『イエス・キリストを知っていて彼を信じている』というだけでは厳密には不十分です。
ですが、彼が全人類の贖いために自分自身を犠牲としてささげたことは知っておくべきだと思います。
今回はここまでにしましょう。
聴いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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