導入
みなさんこんばんは、かいです!
聴いてくださっているみなさんに感謝します。
ありがとうございます。
今回はクリスチャンにとって最も重要な日といっても過言ではない、復活祭についてお話しします。
キリスト教が浸透している欧米諸国において復活祭はかなり盛大に祝うのですが、日本ではクリスチャン以外の方にはほとんど知られていないようです。
クリスチャンはなぜ復活祭を祝うのか、聖典や教会の出版物を参照してお話しします。
祈りのススメ
この記事内にはわたしたちが所属する末日聖徒イエス・キリスト教会の聖典である新約、旧約の聖書とモルモン書、教義と聖約、高価な真珠の中から聖句を引用しています。
また総大会と呼ばれる教会指導者たちの勧告などのお話からも引用する場合があります。
クリスチャンである方もそうでない方も、聖句を読むとき、以下のことに注意を払っていただけましたら幸いです。
『見よ、わたしはあなたがたに勧めたい。あなたがたにとってこの記録を読むことが、神の知恵にかなうようであれば、あなたがたはこれを読むときに、アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで、主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。
また、この記録を受ける時、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。
そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。』
(『モロナイ書』第10章3節〜5節)
祈りとは
祈りとは、神に感謝し、祝福を願い求める、厳粛な神との交わりです。
祈りはイエス・キリストの名によって天の御父にささげます。
声に出して祈ることもありますし、心の中で唱えることもできます。また、神に向けられたものであれば、人が心に思うことも祈りといえます。
さらに義人の歌もまた神への祈りとなります。
『わたしは心の歌を喜ぶからである。まことに、義人の歌はわたしへの祈りである。それに対する答えとして、彼らの頭に祝福が注がれるであろう。』
(『教義と聖約』第25章12節)
『主にむかって歌え、主をほめ歌え。そのもろもろのくすしきみわざを語れ。』
(『歴代史上』第16章9節)
復活祭とは
復活祭とは、十字架上で死んだイエスが三日目に復活したことを記念する祭のことです。
今年の復活祭は四月四日ですが、復活祭はその年によって日が異なります。
また東方教会と西方教会でも日付の算定方法が異なり、教会によっては復活祭の日付が異なっていることが多くあります。
わたしたちの所属している末日聖徒イエス・キリスト教会では西方教会と同じ日に主の復活を祝います。
復活
復活とは、死後、霊体と骨肉の体が再び結合することをいいます。復活後は、霊と肉体は決して再び分離することはなく、人は不死不滅となります。
イエス・キリストが死に打ち勝ったので、わたしたちはもちろんのこと、地上に生を受けた人はすべて復活します。
新約聖書に復活について触れた箇所があります。
『しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。』
(『コリント人への第一の手紙』第15章20節〜22節)
『アダムにあってすべての人が死んでいる』とは、神の戒めに背いたために人類家族が発生したこと、また人類が地上で進歩するために必要な段階を踏んだ事と引き換えに、地上に死が入り込んだことを指しています。
『あなたは顔に汗してパンを食べ、土から取られたので、ついに土に帰る。あなたは必ず死ぬであろう。あなたはちりであったから、ちりに帰るのである。』
(『モーセ書』第4章25節)
不死不滅の肉体
イエスは地上で復活した最初の御方です。彼は復活したのち、弟子たちの前に姿を現されましたが、復活を信じない者もいました。
イエスは御自身が骨肉の体をもって復活を遂げたことを弟子たちに見せるため、十字架にかけられた時についた傷に触れさせ、イエス自身は魚と蜜を食べられました。
またイエスが葬られた墓では天使たちが主の復活を証しました。
御子イエスが全人類を贖って復活すること、また復活体についての記録が『モルモン書』に収められています。
『また、神の御子は御自分の民を贖うために、将来この世に来られ、御自分の御名を信じる人々の背きを負われる。これらの人々は永遠の命を得る人々であり、これ以外の人々に救いは与えられない。
したがって、悪人はあたかも贖いがなかったかのような有様であり、ただ死の縄目からの解放だけがある。見よ、すべての人が死者の中からよみがえって神の御前に立ち、自分の行いに応じて裁かれる日が来るからである。
さて、肉体の死と呼ばれる死がある。そして、キリストの死は将来この肉体の死の縄目を解き、すべての人がこの肉体の死からよみがえる。
霊と体は再び結合して完全な形になり、手足も関節も、ちょうど今のわたしたちのような、その本来の造りに回復される。そして、わたしたちは今持っている知識を保ったまま、神の御前に連れ出されて立ち、自分のすべての罪をはっきりと思い出す。
さて、この復活は、老いた人にも若い人にも、束縛された人にも自由な人にも、男にも女にも、悪人にも義人にも、すべての人に与えられる。そして、髪の毛一筋さえも失われることはなく、すべてのものが今あるような、その完全な造りに、すなわち体に回復される。それから、自分の行いが良いか、それとも悪いか、行いに応じて裁かれるために、一つの永遠の神である御子なるキリストと御父なる神と聖なる御霊との法廷に連れ出され、罪の有無を問われる。
さて見よ、わたしは死すべき体の死について、また死すべき体の復活についてあなたに語ってきた。わたしはあなたに言う。この死すべき体は不死不滅の体によみがえる。死から、すなわち第一の死から命に移り、すべての人がもう死ぬことはあり得ない。彼らの霊は体と結合して、決して分離しない。このように相合したものは、霊的な、不死不滅のものとなり、彼らはもはや朽ちることがない。』
(『アルマ書』第11章40節〜45節)
現在わたしたちは死すべき肉体に留まっていますが、それぞれの人が死んだ後、ふさわしい時になると復活体をもってよみがえります。
そのときは二度と霊と体が分離することなく、不死不滅の状態になります。
ただ、全ての人が同じ栄光の状態に復活するわけではありません。
神の戒めを守り、必要な儀式を行い、正しい者と看做される人と、そうではない人との間には受ける栄光の違いがあります。
『天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。
日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。』
(『コリント人への第一の手紙』第15章40、41節)
わたしたちが不死不滅の体を得ることは父なる神の御心でもあります。
『見よ、人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である。』
(『モーセ書』第1章39節)
贖罪によって得られる体
『不死不滅』と『永遠の命』は同意義のように思えますが、実はこの二つは意味合いが異なります。
不死不滅の肉体はキリストの贖罪によって、全人類に与えられる祝福です。
わたしたちの罪を背負ってナザレのイエスが死んだことで、贖罪は成されました。これにより、世界の初めからこの世に生まれたすべての人が不死不滅の体をもって、死者の中からよみがえります。
『彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く子羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共にものを分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分ち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。』
(『イザヤ書』第53章3節〜12節)
『永遠の命』とは、上に引用したコリント人への第一の手紙にある、『日の栄光』を受け、さらにその中でも最も高い階級を得ることができた人のみに与えられる、神の最も大いなる賜物です。
永遠の命についてはまた別の機会にお話しします。
一度死んだのちに復活を果たした人の記録は聖典に複数あります。
例えばニーファイ人の最後の預言者であったモロナイは、死者の中からよみがえり、天使となってジョセフ・スミスたちの前に姿を現しました。
同様にバプテスマのヨハネ、ペテロ、ヤコブ、エリヤ、エライアスも復活し、天使としてジョセフ・スミスを訪れました。
『天に二種の存在者がいる。すなわち、第一は天使である。天使とは、骨肉の体を持つ復活した人々である。
例えば、イエスは、「触って見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはある」と言われた。
第二に、完全な者とされた正しい人々の霊である。彼らは復活していないが、同じ栄光を受け継ぐ。』
(『教義と聖約』第129章1節〜3節)
さいごに
冒頭で申し上げましたように、復活祭とはイエスが復活したことを記念する祭でありますが、それと同時に彼の贖罪によって、わたしたちが父なる神のもとに帰ることができるようになったと知る日でもあると思います。
贖罪とは、神に対して人を執り成すことです。
贖罪とは、罪の行いに対する罰を引き受け、それによって、悔い改める人から罪がもたらす影響を除き、神との和解を可能にすることです。
イエス・キリストの贖罪には、ゲツセマネの園において全人類の罪のために苦しまれたこと、イエス御自身の血を流されたこと、彼の死とそれに続く墓からの復活が含まれます。
贖罪によって、すべての人が不死不滅の体をもって死者の中からよみがえるようになりました。
『アダムによってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。』
(『コリント人への第一の手紙』第15章22節)
わたしたち末日聖徒イエス・キリスト教会には、『総大会』と呼ばれる教会指導者たちの話や証を聴く機会が一年に二度あります。
2021年4月の総大会は、3日と4日に行われます。
日本との時差があるため、日本では夜中に開始となりますが、教会の公式サイトやYouTubeでも視聴できます。
教会の大管長であるラッセル・M・ネルソン長老からの招待が動画サイトにもアップロードされました。
興味をお持ちになられた方は、ぜひ総大会もご視聴ください。
今回はここまでにしましょう。
聴いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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