導入
みなさんこんばんは、かいです!
聴いてくださっているみなさんに感謝しています。
ありがとうございます。
さて、今回は『聖霊』についてお話しします。
これまでにも聖霊について少し触れたことはありますが、もう少し掘り下げます。
聖霊について知ることは非常に大切です。
なぜなら、クリスチャンであるなしに関わらず、神としての聖霊はわたしたち人間のために常に働いてくださっているからです。
そして、サタンは聖霊の真実を人々に知られることを避けたいと望んでいます。
なぜなら、人々が聖霊について知れば知るほど、人々を誘惑することが難しくなるからです。
ですからサタンとその使いたちは旧約聖書から『聖霊』という存在を抹消しました。
旧約聖書に『聖霊』という名が登場しないのはそのためです。
聖霊は御父や御子とともに初めから存在していました。
ですが、その名は新約聖書から登場します。
この大きな障害によってたくさんの人が神の姿を誤って解釈してしまっています。
聖霊は神の御一方です。
今回も聖典や教会の出版物を参照します。
聖霊とは
クリスチャンでない方でも、『聖霊』という名を目にしたこと、あるいは聴いたことがあるかもしれません。
海外のホラー映画なんかではたまにこの名が台詞として出ることがあります。
「父と子と聖霊の名によって」とかいうやつです。
この3番目に呼ばれるのが聖霊です。
ちなみに、『精』霊ではありません。
『聖なる』霊ですので、聖霊と書きます。
ちなみに英語ですと”Holy Ghost”といいます。
上記の台詞でもお分かりになるかもしれませんが、御父、御子とともに『神会』を構成される御一人であり、呼び名のとおり肉体を持たず、霊の御方です。
神会
わたしたちの教会の教えであり、わたしたちが異端と呼ばれる理由のひとつに数えられるのが、『三位一体説を信じていない』ということですが、この理由が『神会』です。
神会はそれぞれ独立した御三方、すなわち永遠の父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊によって構成されます。
わたしたちはそれぞれの御方を信じています。
『わたしたちは、永遠の父なる神と、その御子イエス・キリストと、聖霊とを信じる。』
(『信仰箇条』第1章1節)
末日の啓示は、御父と御子は触れることのできる骨肉の体を持っておられること、また聖霊は骨肉の体を持たない霊の御方であられることを教えています。
『御父は人間の体と同じように触れることのできる骨肉の体を持っておられる。御子も同様である。しかし、聖霊は骨肉の体を持たず、霊の御方であられる。 もしそうでなければ、聖霊はわたしたちの内にとどまり得ない。
人は聖霊を受けることができる。そして、聖霊が人に降られることはあるが、しかし長くはとどまられることはない。』
(『教義と聖約』第130章22、23節)
そして、この御三方は目的と教えにおいて完全に一致、調和し、一つであられます。
『神はただひとつ』の意味がこれです。
三位一体説のように、一人の神に三つの神格がある、というものではありません。
『父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをも私たちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、私たちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。』
(『ヨハネによる福音書』第17章21節〜23節)
『さて、わたしの愛する同胞よ、これが道である。そして、このほかには人を神の王国に救う道も名も天下に与えられていない。見よ、これがキリストの教義であって、限りなく一つの神であられる御父と御子と聖霊の唯一の真正な教えである。アーメン。』
(『ニーファイ第二書』第31章21節)
『このような方法で、わたしの名によってバプテスマを施しなさい。見よ、まことに、あなたがたに言う。父と子と聖霊は一つである。わたしは父におり、父はわたしにおられ、父とわたしは一つである。』
(『ニーファイ第三書』第11章27節)
聖霊なる神
聖霊もまた御父、御子と同じく神の御一方です。
彼は『聖霊』のほか、聖なる御霊(みたま)、御霊、神の御霊、慰め主、約束の聖なる御霊など、さまざまな類似した呼び名や称号で呼ばれます。
わたしたちは聖霊の助けによって、父なる神の御心を知り、またイエスがキリストであることも知ることができます。
『そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも、「イエスは主である」と言うことができない。』
(『コリント人への第一の手紙』第12章3節)
御父、御子の御二方は滅多なことでは人の前に御姿を現されることはありませんが、聖霊は誰の心にも働きかけることができます。
聖霊の賜物
聖霊の力は、まだバプテスマを受けていない人にも及び、福音が真実であることを証します。ですが、『聖霊を常に伴侶とする権利』は、権能を持つ人からイエス・キリストのまことの教会に入るためのバプテスマを受けた後、大神権を持つ者の按手によってのみ授けられる賜物です。
これを『聖霊の賜物』と言います。
『ところが、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた。
シモン自身も信じて、バプテスマを受け、それから、引きつづきピリポについて行った。そして、数々のしるしやめざましい奇跡が行われるのを見て、驚いていた。
エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。
二人はサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。
それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。
そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。
シモンは、使徒たちが手をおいたために、御霊が人々に授けられたのを見て、金を差し出し、
「わたしが手をおけばだれにでも聖霊が授けられるように、その力をわたしにも下さい」と言った。
そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。
お前の心が神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない。
だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない。
おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、わたしにわかっている」。
シモンはこれを聞いて言った、「仰せのような事が、わたしの身に起こらないように、どうぞ、わたしのために主に祈って下さい」。
使徒たちは力強くあかしをなし、また主の言を語った後、サマリヤ人の多くの村々に福音を宣べ伝えて、エルサレムに帰った。』
(『使徒行伝』第8章12節〜25節)
『キリストが御自分の選ばれた十二人の弟子たちに手を置かれたとき、彼らに言われた御言葉は次のとおりである。
キリストは彼らの名を呼んで言われた。「わたしの名によって熱烈に祈って父に請い願いなさい。あなたがたはこのように行った後に、あなたがたが手を置く者に聖霊を授ける力を持つであろう。わたしの名によって聖霊を授けなさい。わたしの使徒たちはこのように行うからである。」
キリストは初めてその御姿を現されたとき、彼らにこれらの御言葉を語られた。群衆はこれを聞かず、弟子たちだけがこれを聞いた。そして、彼らが手を置いたすべての者に聖霊が降られた。』
(『モロナイ書』第2章1節〜3節)
『さらにまた、あなたが水でバプテスマを施すすべての者に、あなたは手を置かなければならない。そうすれば、彼らは聖霊の賜物を受け、わたしの来臨のしるしを待ち望むようになり、わたしを知るであろう。』
(『教義と聖約』第39章23節)
火によるバプテスマ
聖霊の賜物を受けることは、しばしば『火によるバプテスマ』と呼ばれます。
『わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のある方で、わたしはその靴をぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火によっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。』
(『マタイによる福音書』第3章11節)
『また、あなたは様々な教義を話すことをせずに、悔い改めと救い主を信じる信仰、バプテスマによる罪の赦し、および火すなわち聖霊による罪の赦しを告げなさい。』
(『教義と聖約』第19章31節)
聖霊の役目
聖霊は救いの計画の中でいくつかの重要な役割を果たされます。
ひとつに、御父と御子を証されるということです。
『聖霊は父とわたしのことを証する。そして父は、わたしのゆえに人の子らに聖霊を与えられる。』
(『ニーファイ第三書』第28章11節)
『わたしは、預言者たちと使徒たちが書き記してきたイエスを求めるように、あなたがたに勧めたい。そうすれば、父なる神と主イエス・キリストと、この御二方のことを証される聖霊の恵みが、とこしえにあなたがたの内にとどまるであろう。アーメン。』
(『エテル書』第12章41節)
また、すべてのことについて真理を明らかにされます。
『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。』
(『ヨハネによる福音書』第14章26節)
『けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。』
(『ヨハネによる福音書』第16章13節)
『そして、これこそわたしの福音である。すなわち、悔い改めと、水によるバプテスマ、その後、火と聖霊によるバプテスマがある。聖霊すなわち慰め主は、すべてのことを示し、王国にかかわる平和をもたらす事柄を教える。』
(『教義と聖約』第39章6節)
そして、悔い改めてバプテスマを受けた人を聖められます。
『イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国に入ることはできない。』
(『ヨハネによる福音書』第3章5節)
『さて、戒めは次のとおりである。地の果てに至るすべての者よ、悔い改めて、わたしのもとに来て、わたしの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊を受けて聖められ、終わりの日にわたしの前に染みのない状態で立てるであろう。』
(『ニーファイ第三書』第27章20節)
『このように主がわたしたちの先祖アダムと語られたとき、アダムは主に叫び求めました。すると、彼は主の御霊に連れ去られ、水の中に運ばれ、水に沈められ、そして水から連れ出されました。
このようにして、彼はバプテスマを受け、神の御霊が彼に降られました。このようにして、彼は御霊によって生まれ、内なる人において生かされた者となったのです。
そして、彼は天からの声が告げられるのを聞きました。「あなたは火と聖霊によってバプテスマを受けた。これは今から後とこしえに、父と子の証である。
あなたは、永遠から永遠にわたって、日の初めもなく年の終わりもない者の位に従う者である。
見よ、あなたはわたしにあって一つであり、神の子である。このようにして、すべての者はわたしの子となることができるのである。アーメン。」』
(『モーセ書』第6章64節〜68節)
約束の聖なる御霊
おそらくわたしたちの教会に属しておられない方にとっては聞き慣れないと思いますが、聖霊は『約束の聖なる御霊』でもあります。
人の救いには信仰と儀式が必要です。
信仰とは、イエス・キリストに対する確信と信頼を指します。
この確信と信頼があれば、人はイエス・キリストに従うようになります。
人を救いに導く信仰は、イエス・キリストを中心としたものでなくてはなりません。
わたしたち末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は父なる神、聖霊、神権の力、また回復された福音のその他の重要な事柄に対しても信仰をもっています。
『さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。』
(『ヘブル人への手紙』第11章1節)
儀式
以前すこし触れましたが、わたしたちの教会は世界中に神殿を建設しています。
神殿は特別なところであり、ここでしか行えない儀式がいくつもあります。
その儀式には生者、死者の救いに必要不可欠なものが含まれます。
神殿での儀式は神聖なものですので口外することはできませんが、霊的な意味を持つ所作を通して執行されます。
御霊による確認
これらの儀式や神との聖約を、神に受け入れられるものとして確認されるのが聖霊です。
約束の聖なる御霊は、救いの儀式が適切に執行されたこと、またそれに伴う聖約が守られていることを御父に証されます。
また、約束の聖なる御霊によって結び固められる人々は御父がもっておられるすべてを受けることができます。
『すなわち、彼らはイエスの証を受け入れ、その名を信じ、そしてイエスの名によって水の中に沈められ、イエスから与えられた戒めのとおりにその埋葬に倣ってバプテスマを受けた者である。
それは戒めを守ることによって、彼らが自分のすべての罪から洗われて清くされ、この力を持つように聖任され結び固められている者の按手によって聖なる御霊を受けるためである。
また、彼らは信仰によって勝利を得、御父が正しくかつ真実な者すべてに注がれる約束の聖なる御霊により結び固められている者である。
彼らは長子の教会である。
彼らは御父からすべてのものをその手に与えられた者である。
彼らは祭司であり、王であり、御父の完全と御父の栄光を受けた者であり、
また、メルクゼデクの位に従ういと高き方の祭司である。このメルキぜデクの位は、エノクの位に従い、かつ独り子の位に従うものであった。
それゆえ、書き記されているように、彼らは神々、すなわち神の子である。
それゆえ、生も死も、現在のものも将来のものも、すべてのものは彼らのものである。すべては彼らのものであり、彼らはキリストのものであり、キリストは神のものである 。
彼らはすべてのものに打ち勝つ。』
(『教義と聖約』第76章51節〜60節)
上に記しましたように、全ての聖約は、約束の聖なる御霊により結び固められなければ、次の世では効力を持ちません。
『次の世』とは、死んだのち復活したわたしたちが生きる世のことです。
『まことに、わたしはあなたがたに言う。この律法の条件は次のとおりである。すなわち、すべての聖約や契約、きずな、義務、誓詞、誓言、履行、関係、交際、期待がなされ、また交わされるとき、これらが油注がれた者の仲立ちによる啓示と戒めによって、最も聖なる方法で、この世においても永遠にわたっても、この力を持つようにわたしが地上で任じた油注がれた者によって、約束の聖なる御霊により結び固められなければ、これらは死者の中からの復活の時も、その後も、まったく効験や効能、効力がない。(わたしは、終わりの時にこの力を持つように、わたしの僕ジョセフに命じた。そして、この力とこの神権の鍵を授けられる者は、地上において同時期にただ一人しかいない。)この目的で結ばない契約はすべて、人が死ぬと終わるからである。』
(『教義と聖約』第132章7節)
赦されない罪
聖霊に関して、イエスが弟子たちに伝えた大切なことがあります。
それは、『聖霊を冒涜すること』は赦されることがない、というものです。
『だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。』
(『マタイによる福音書』第12章31、32節)
これを読んだだけでは理解するのが少し難しいかも知れませんが、『聖霊に対する罪』を犯すことができるのは、一度聖霊を受けたことがある者です。
つまり、まことの福音を受け入れ、悔い改めて罪の赦しのためのバプテスマを受け、聖霊の賜物にあずかった者、ということです。
この経験がある人が聖霊に背くならば、その罪はゆるされることがない、という意味です。
『いったん、光を受けて天よりの賜物をを味わい、聖霊にあずかる者となり、
また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。
たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。
しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまう。』
(『ヘブル人への手紙』第6章4節〜8節)
では、具体的に聖霊に逆らう罪とはなんでしょうか。
末日の啓示にはこれが記されています。
『まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う。もしある男がわたしの言葉に従って妻をめとり、彼らがわたしの定めたことに従って約束の聖なる御霊により結び固められるならば、彼または彼女がいかなる罪や新しくかつ永遠の聖約に対する背き、またあらゆる冒涜を犯しても、もしも彼らが殺人を犯して罪のない者の血を流すことがなければ、彼らは第一の復活に出て来て、昇栄に入るであろう。しかし、彼らは肉体にあって滅ぼされ、贖いの日までサタンに引き渡されて打たれる、と主なる神は言う。
この世でもこの世の外でも赦されることのない、聖霊に対する冒涜とは、あなたがたがわたしの新しくかつ永遠の聖約を受け入れた後に、殺人を犯すことである。それによって罪のない者の血を流し、またわたしの死に同意するのである。と主なる神は言う 。この律法に従わない者は、決してわたしの栄光に入ることができず、罰の定めを受ける、と主は言う。』
(『教義と聖約』第132章26、27節)
この世でもこの世の外でも赦されることのない、聖霊に対する冒涜とは、新しくかつ永遠の聖約を受け入れたのちに、罪のない者の血を流すことです。
聖霊に頼る
前述のように旧約聖書には『聖霊』という呼び名の存在が記されていません。
他の呼び名で聖霊の存在が記述されている箇所はありますが、一読しただけではわかりにくいかも知れません。また新約聖書では弟子たちとともにイエスご自身がおられたため、聖霊に頼るシーンがあまり記されてはいませんが、モルモン書には聖霊の助けを受ける人々が多く記録されています。
わたしたちクリスチャンのみならず、キリストを信じようとしておられる人々も、聖霊の存在を知り、彼に頼って真理を求めようとすることが必要です。
『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。』
(『ヨハネによる福音書』第14章26節)
『さて、わたしニーファイは、父が示現の中で見たこと、また父が来るべきメシヤである神の御子を信じる信仰により授かった聖霊の力によって語ったことについて、父の言葉をすべて聞いた後、わたしニーファイもまた、聖霊の力によってこのようなことを見聞きし、また知りたいと思った。聖霊とは、昔の時代でも、またメシヤが人の子らに御自身を現される時でも、およそ神を熱心に求めるすべての人に神が与えられる賜物である。
神は、昨日も、今日も、またとこしえに変わることのない御方だからである。人々が悔い改めて神のもとに来るならば、世の初めから、すべての人にその道が備えられている。
熱心に求める人は見いだすであろう。神の奥義は聖霊の力によって、昔の時代のみならず今の時代にも、またこれから先の時代のみならず昔の時代にも、同じようにその人々に明らかにされる。したがって、主の道は一つの永遠の環である。』
(『ニーファイ第一書』第10章17節〜19節)
『見よ、わたしは、もう一度あなたがたに言っておく。あなたがたがその道によって入り、聖霊を受けるならば、聖霊は、あなたがたがなすべきことをすべてあなたがたに示されるであろう。』
(『ニーファイ第二書』第32章5節)
さいごに
聖霊という存在は私たちにとって、人生を生き抜いていく上でも非常に大切な役割を担ってくださっています。
神の真理を知る、というような事柄のみならず、毎日の生活を送る上でも様々な助けと助言を与えてくださいます。
ただ、聖霊の働きかけは私たち自身がそれを受け入れる準備をしていなければ、それとわからないことが多いでしょう。
聖霊はわたしたちの心に囁きかけるように助けてくださることが多いからです。
心に強いイメージをはっきりと受けた、という経験を聞くこともありますが、いずれにせよわたしたちが聖霊を受け入れる準備を常にしておくことが大切です。
高慢にならず、神の前にへりくだり、神からの助言を受け入れようとするとき、聖霊の働きかけがあるでしょう。
聖霊の別名に『慰め主』というものがあるからです。
少し長くなりましたが、今回はここまでにしましょう。
聴いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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