導入
みなさんこんばんは、かいです!
第十八回目で『正しい者の復活』について少しお話ししました。
今回は、神の目に正しくない者の復活についてお話しします。
今回も聖典や教会の出版物を参照しています。
復活

そもそも復活とは、死後、霊体と骨肉の体が再び結合することを言います。
『肉体の』死とは、肉体と霊が分離することを言います。
アダムが堕落する以前、地上にいた命あるものは死ぬことがありませんでした。
ですが、彼の選びによって地上に死と腐朽がもたらされました。
『ところで見よ、アダムがもし背かなかったならば、彼は堕落をせずにそのままエデンの園にいたであろう。そして創造されたすべてのものは、創造された後の状態そのままで存続したに違いない。また、すべてのものはとこしえに存続し、終わりがなかったに違いない。』
(『ニーファイ第二書』第2章22節)
『エノクは彼らに言った。「アダムが堕落したので、わたしたちは存在しています。そして、アダムの堕落によって死が生じ、わたしたちは不幸と災いを受ける者とされているのです。』
(『モーセ書』第6章48節)
少し話はずれますが、わたしたちの教会ではアダムの堕落を『原罪』とは呼びません。
アダムは自らの意思で知恵を身につけ、結果としてエデンの園を出ることになりましたが、彼とエバの選択によってわたしたち人が生じることとなったためであり、神の言いつけに対してアダムは背きましたが、そこには非常に深い意味が隠されており、アダムがとった行動は罪ではないからです。
そして、イエス・キリストの贖罪が死を征服したため、すべての人が復活するようになりました。
『それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。』
(『コリント人への第一の手紙』第15章21、22節)
『すべての人が生かされる』の言葉どおり、現世においてどれほど善行を積もうが、どれほどの罪悪を行おうが関係なく、すべての人が復活します。
歴史上に名を残すほどの悪人であろうと復活は受けます。
それはキリストの贖罪によって私たちに与えられる賜物だからです。

『さて、肉体の死と呼ばれる死がある。そして、キリストの死は将来この肉体の死の縄目を解き、すべての人がこの肉体の死からよみがえる。
霊と体は再び結合して完全な形になり、手足も関節も、ちょうど今のわたしたちのような、その本来の造りに回復される。そして、わたしたちは今持っている知識を保ったまま、神の御前に連れ出されて立ち、自分の全ての罪をはっきりと思い出す。
さて、この復活は、老いた人にも若い人にも、束縛された人にも自由な人にも、男にも女にも、悪人にも義人にも、すべての人に与えられる。そして、髪の毛一筋さえも失われることはなく、すべてのものが今あるような、その完全な造りに、すなわち体に回復される。それから、自分の行いが善いか、それとも悪いか、行いに応じて裁かれるために、一つの永遠の神である御子なるキリストと御父なる神と聖なる御霊との法廷に連れ出され、罪の有無を問われる。』
(『アルマ書』第11章42節〜44節)
とはいえ、これまでに亡くなった人々がすべて同時に復活するわけではありません。
義人(ただしい人)は悪人よりも先に復活します。
『すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、』
(『テサロニケ人への第一の手紙』第4章16節)
第一の復活にあずからない者
自らの罪を悔い改めない者は最後の復活の時に出てきます。
『(それ以外の死人は、千年の期間が終わるまで生き返らなかった。)これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
千年の期間が終わると、サタンはその獄から解放される。
そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽くした。
そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣も偽預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。』
(『ヨハネの黙示録』第20章5節〜13節)
『これらは、最後の復活まで、主すなわち子羊なるキリストがその業を終えられるまで、悪魔から贖われない者である。』
(『教義と聖約』第76章85節)
福千年ののちの復活
第一の復活を受ける人々は主とともに、主が聖なるものとされるこの地球で暮らします。
主は千年の間地上を統治しますが、その後人々が神を否定し始めるときが訪れるとされています。
縛られていたサタンが解き放され、彼に従う人々を集めるようです。
『さらにまた、まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う。千年が終わり、人々が再び彼らの神を否定し始めるとき、わたしはしばしの間だけ地をそのままにしておこう。』
(『教義と聖約』第29章22節)
『このようにして、第七の天使がラッパを吹き鳴らすに至る。そして彼は、地の上と海の上に立ち、御座に着いている者の名によって、もう時がないと誓う。また、あの年を経た蛇、悪魔と呼ばれているサタンは縛られ、千年の間解放されない。
その後、彼はしばしの間解放されて、自分の軍勢を集める。』
(『教義と聖約』第88章110、111節)
あくまでも想像ですが、サタンの解放と近い時期に神の戒めに従わなかった人たちの復活があるのかもしれません。
また、福千年が終わると復活を受けた人々の中にも神を否定し始める者が現れ始めるようです。
サタンはこれらの人々を誘惑するのでしょう。
残念なことですが、サタンが惑わす人々は『海の砂のように多い』と記されています。
モルモン書には、主に導かれてエルサレムを離れ、約束の地へと導かれた人々やその子孫たちが、あまりにも短期間のうちに主なる神を忘れ、また背いたと言うことが何度も記録されています。
一度死と復活を経験し、神の存在を理解して受け入れた人々もまた、自分たちの神を否定するのでしょうか。
サタンの詭弁と心に訴えかけるテクニックは確かに目を見張るものがあります。
現世においても我知らず、サタンの誘惑に陥ってしまうことがあります。
わたしたちは神から戒めを与えられており、それに『従う』と神との間で聖約を交わします。
ですが、人生を生きていく中でいかなる時も戒めを守れるか、というとそうではない場合があります。
だからこそ悔い改めが必要であり、わたしたちは日々自身の行いを吟味して悔い改めを行うよう勧告されています。
さいごに
聖典には義人の復活、悪人の復活が記されています。
毎日の生活の中で、自分自身の行いが神から見て正しいのかどうかを知ることが、難しく感じる場合もあります。
最近は聞かなくなりましたが、『信じる者は救われる』というフレーズがあります。
『信じる者』だけが救われるのではありません。
信じていなくても、さらに言うなら神の救いの計画や福音を知らなくても、正しく生きた人々は救われるのです。
今回はここまでにしましょう。
聴いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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