導入
皆さんはじめまして。
今回からこの福音ラジオのパーソナリティを務めます『かい』と申します。
これを聞いている皆さんの貴重なお時間を私にくださっている事に、心から感謝しています。
ありがとうございます。
突然ですが、みなさんは神を信じていますか?
何十年も前から耳にする、ともすればブラックジョークのひとつのように語られ続けてきたこのフレーズをわたしは今、真剣に皆さんに問いたいと考えています。
皆さん、神の存在を信じていますか?
それとも神などというものはこの世にはいないとお考えでしょうか?
教会の紹介
わたしは『末日聖徒イエス・キリスト教会』という教会に所属しています。
最近までは『モルモン教』などと呼ばれてきました。
ですが私たちの教会の正式な名称は日本語で『末日聖徒イエス・キリスト教会』と言います。
教会本部のあるアメリカ合衆国での名称は『Church of Jesus Christ of Latter-Day Saints』です。
キリストを信じる信仰を持つ、クリスチャンです。
ですが一般的にカソリック教会やプロテスタント教会、正教会からは異端視されています。
これは今挙げた諸教会と私たちの教会の間で、教義に違いがあるためです。
勘違いして欲しくないのは、わたしはどの宗派とも争ったり批判合戦をしたいわけではないという事です。
またこのコンテンツはあくまでもわたしが個人で行っているものであり、わたしが所属する教会の公式な発表を引用することはありますが、あくまでも基本的には私の考えや意見であり、教会から認められた公式のものではないことをここに宣言します。
さて、最初にわたしの所属する教会についてざっくり説明します。
教会の正式名称は先ほど申し上げました通り、『末日聖徒イエス・キリスト教会』です。
私たちは標準聖典として四つの書物を大切にしています。
ひとつは『モルモン書』。
そして『聖書』、私たちが『聖書』と呼ぶときは、新約、旧約聖書を併せたものの意味です。
そして『教義と聖約』という書物。
最後に『高価な真珠』という書物です。
私たちはこれらの書物を個人で、また家族で研究する事を推奨されており、多くの会員が日々聖典の研究を行っています。
ここでいう『研究』という言葉の意味は、ただ単に読書するという意味ではなく、読んだあとによく考え、思い浮かんだ事柄について祈り、さらにその先にある真理を見出そうと努力する事を指します。
聖典についての説明
それでは私たちが使用している聖典についての説明をします。
まずひとつめはかつての俗称の由来にもなっていた『モルモン書』です。
これは平たく言うと、紀元前約600年にエルサレムを出てアメリカ大陸へと渡ったユダヤ人たちと、その子孫たちの記録が記されている書物です。
ちなみにモルモンというのは、この書物に登場する人物の名前です。
彼を含む複数の人物が自分たちの生活の中で起こった重要な出来事などを記録し、また編纂しました。
彼らの子孫は約1000年にわたってアメリカ大陸で繁栄と滅亡を繰り返しました。
しかし最終的にイエス・キリストが地上にこられてから約400年間が経過した時点で内戦により、彼らのほとんどが滅びてしまいます。
現在もアメリカ合衆国の一部の地域に居住している『ネイティブアメリカン』と呼ばれる人たちは彼らの子孫であると言うことが記されています。
次に紹介する書物が『教義と聖約』です。
この書物の序文の最初にこのように記されています。
「『教義と聖約』は、終わりの時に地上に神の王国を設立して治めるために与えられた、神の啓示と霊感による宣言を集めたものである。」
またこのようにも記されています。
「そのメッセージと警告、および勧告は全人類を益するものであって、そこには、主イエス・キリストの声に耳を傾けるようにとの全地のすべての人への招きが含まれている。
この書物に収められている啓示のほとんどは、末日聖徒イエスキリスト教会の最初の預言者であり大管長であるジョセフ・スミス・ジュニアを通して与えられたものである。
その他の啓示は、彼の継承者として大管長の職に就いた人々を通して発表された。」
次に紹介する書物が『高価な真珠』です。
この書物の序文にこのように書かれています。
「『高価な真珠』は、末日聖徒イエス・キリスト教会の信仰と教義の多くの重要な事項に関連のある、選りすぐった資料の選集である。
これらの記事は、預言者ジョセフ・スミスによって準備され、その当時の教会の定期刊行物に掲載されたものである。」
これらの書物に「聖書」を含んだ4つの書物を標準聖典として私たちは大切にしています。
聖典の詳細などについてはまた次回以降にお話しします。
私たちの教会の起こり
私たちの教会は正式には1830年4月6日、アメリカ合衆国憲法に則って設立されました。
設立に関与したメンバーは初代大管長であるジョセフ・スミス・ジュニアのほか計6名です。
『大管長』とは私たちの教会全体を管理する職につく者を指す言葉です。
大管長には二人の顧問がおり、彼ら3人を指して『大管長会』と呼びます。
ちなみに2020年現在の大管長はラッセル・マリオン・ネルソンです。
では、なぜジョセフ・スミスは教会を立ち上げることになったのか、その当時の時代背景なども共にお話しします。
私たちの聖典の中に数えられる『高価な真珠』から、『ジョセフ・スミスー歴史』の他、教会から出版されている書物を参照にしています。
ジョセフ・スミス・ジュニアは1805年12月23日、アメリカ合衆国バーモント州ウィンザー郡にあるシャロンという町で出生しました。
『ジュニア』と名前につけられているように、彼の父親も同じ『ジョセフ』という名前です。
父親であるジョセフ・スミス・シニアはバーモント州を去り、ニューヨーク州オンタリオ郡(現在のウェイン郡)パルマイラという地に移り住みました。
この当時、ジョセフ・スミス・ジュニアは10歳くらいであったようです。
当時のスミス家は11人家族でした。
父ジョセフ、母ルーシー、兄弟たちはアルビン、ハイラム、ジョセフ、サミュエル・ハリソン、ウィリアム、ドン・カーロス、姉妹たちがソフロニア、キャサリン、ルーシーです。
ジョセフ・スミスの父親も同じ『ジョセフ』という名前ですので、混乱を避けるために父親を指すときは『父ジョセフ』あるいは『ジョセフ・シニア』と呼ぶ事にします。
息子ジョセフを指すときは『ジョセフ』のみで呼ぶ事にしましょう。
ジョセフが12歳の頃、パルマイラで宗教的な論争が起こりました。
ジョセフは読書家ではありませんでしたが、物事を深く考えるのが好きでした。
不滅の魂についてもっと知りたいと思い、牧師の話に耳を傾けましたが、説教から確信を得ることはできませんでした。
牧師たちはジョセフに『自分たちは罪に満ちた世界に生きる罪人であり、救いをもたらすイエス・キリストの恵みなしには無力なものである』と告げます。
ジョセフは彼らの説教を信じ、自らの罪を後悔してはいたものの、どこに自身の罪の赦しを見出せば良いのかがわからなかったようです。
教会に行くことで助けを得られるかも知れないとも考えたのですが、そもそもその教会同士が言い争いを繰り返していたため、神の真理を見出す方法を知らなかったのです。
その後家族はマンチェスターに移り住み、雇われ仕事に加えて土地を開墾しながら作物を育てていました。
パルマイラで見た宗教的な論争は落ち着きを見せてはいましたが、牧師たちは依然としてその地域のそこかしこで改宗社獲得のために争っていました。
『ジョセフ・スミスー歴史』よりそのまま引用します。
『それはメソジスト教徒から始まったが、間もなく広くその地域内の全ての教派に及んだ。実に、その地方全体がそれに影響されたようであった。そして、大勢の群衆がさまざまな教派に加わり、それが人々の間にただならぬ騒ぎと分裂を引き起こした。「見よ、ここだ」と叫ぶ人もいれば、「見よ、そこだ」と叫ぶ人もいた。ある人は長老派の教えを、またある人はバプテスト派の教えを擁護して論争していた。』
とあります。
さらに続きます。
『これらさまざまな教派に転じた改宗者たちは、改宗の時に深い愛を表明し、また、この尋常でない宗教的感情の場面を引き起こし助長するのに深く関わった牧師たちは、すべての人を改心させるために、どこでも自分の好む教派に加わりなさいと言って、大いなる熱意を表した。にもかかわらず、改宗者たちのある人々はある教派、またある人は別の教派というように所属が定まり始めると、牧師たちと改宗者たちの好ましく見えた感情は、真実ではなく偽りであるように思われた。牧師が牧師と、改宗者が改宗者と言い争うひどい混乱と悪感情の場面がこれに続き、その結果、全てお互いの好感情は、もし、かつて幾らかでもそのようなものがあったとしても、今は言葉の争いと見解についての論争ですっかり失われてしまったからである。』
この当時14歳であったジョセフはそれでも家族のうちの数人、父ジョセフと母ルーシー、兄弟のハイラムとサミュエル・ハリソン、姉のソフロニアが長老派の教えを受け入れるのを見ましたが、彼自身は心の中で深く考えさせられ、大きな不安を感じずにはいられなかったと記されています。
それでもジョセフはさまざまな教派の集まりに出席した結果、彼の心はややメソジスト派に傾き、彼らに加わりたいと望むようになりました。
日本に住む私たちには少し考えづらい事ですが、当時のニューヨーク州では同じキリスト教に属していても教派間でかなりの混乱や争いがあったそうです。
さて、ジョセフはある時説教を聞いていると、牧師が新約聖書、ヤコブの手紙の第1章を引用するのを耳にしました。
『あなたがたのうち、知恵に不足しているものがあれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。』
ジョセフは家に帰ると、聖書のその節を読みました。
この時のことについて、ジョセフはのちにこのように語りました。
『それはわたしの心の隅々に大きな力で入り込んでくるように思われた。もし誰か神からの恩恵を必要とするものがあるならば、それは自分である事を悟って、わたしはこの言葉を再三再四思い巡らした。』
ジョセフはそれまで、聖書というものはあらゆる悩みについての答えを備えたものであると考えていたようです。
しかし、自身の疑念を神に直接問いかけ、求めることができると聖書から学んだのです。
そしてジョセフは、祈る事を決意しました。
それまでは声に出して祈ったことはありませんでしたが、聖書に記されている言葉を信頼したのです。
若干14歳であった少年が真理を求め続けて神に祈る事を選択した、と考えると意外かも知れませんが、 ジョセフの選択が今から200年以上前であったことや、現代においても10代の青少年が抱えている悩みの多様性を考慮すると、決して突拍子もない行動ではなかったのかも知れません。
私たちは人生の中で抱えている悩みや問題が解決する事を望みますが、それらの全てが期待した通りに完結するわけではありません。
むしろ思い通りにならないことの方が多いのではないでしょうか?
『神などいない。なぜなら苦しむわたしを助けてはくれなかったからだ。』
こういった意見はわたしも耳にします。
おっしゃる事はよくわかりますし、そういった考えになることも理解できます。
ですが、困難が私たち一人ひとりを成長させる結果となったならどうでしょうか。
つまり、困難の先に人間としての成長があるとしたら?
そして、そうなる事を神が望んでおられたならどうでしょうか。
様々な意見があると思います。
『それでも神はいない』
と仰る方もおられるでしょう。
それでも構いません。
わたしのここでの目的はキリスト教徒を増やすことではありません。
あくまでも私が受け入れたことをひとりでも多くの方に知っていただきたいのです。
そしてこれを聞いてくださった方にもよく考えて欲しいのです。
私たちは何のために生きているのか?
なぜこの世に生まれたのか?
という事をです。
まとめ
今回は以上になります。
次回はジョセフに何が起こったのかを紹介します。
聞いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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