導入
皆さんこんばんは、かいです。
聞いてくれているみなさんのお時間を今、分けてくださっている事に、心から感謝しています。
ありがとうございます。
さて、前回は私の所属している教会の初代大管長であるジョセフ・スミス・ジュニアが真理を見出そうとして神に祈る決心をしたところまでお話ししました。
今日はその後彼がどうなったのかをお話しします。
今回も教会から出版されている書物、また聖典を参照しています。
最初の示現
神に祈る決心をしたジョセフは1820年のある春の朝、早起きしてニューヨーク州マンチェスターにある自宅近くの森に向かいました。
その森の中であらかじめ静かな場所を見つけておいたジョセフは、辺りを見回し、自分一人である事を確かめました。
ジョセフは跪き、思い悩んでいた事を声に出して神に告げはじめました。
また自身の罪に対する赦しを乞い求めたのです。
この時に起こった事を『ジョセフ・スミスー歴史』からそのまま引用します。
サタンの実存
「わたしは前もって決めておいた場所に人目を避けて行き、辺りを見回し、自分一人である事を確かめると、跪いて、心の願いを神に告げはじめた。
わたしがそうし始めるや否や、すぐにわたしは何かの力に捕らえられた。
その力は完全にわたしを圧倒し、私の舌を痺れさせるほどの驚くべき力を振るったので、わたしは物を言うこともできなかった。
深い闇がわたしの周囲に集まり、一時はあたかも突然の滅びを宣告されたかのように思われた。」
ここだけを読むとなんだかよく解らない記述ですが、別の資料には次のように記されています。
「祈るにつれ、ジョセフの舌は動きを制されていき、しまいには話せなくなってしまいました。背後に足音が聞こえるも、振り向くと姿はありません。再び祈ろうとしましたが、足音は大きくなる一方で、まるで誰かが近づいてくるかのようです。ジョセフは飛び上がり、急いで振り返ってみましたが、やはり誰もいません。
突然、目に見えない力がジョセフを捉えました。もう一度口を開こうとするも、舌はやはり動きません。深い闇に取り囲まれ、ついには陽の光が見えなくなりました。疑いと恐ろしい印象が脳裏をよぎり、ジョセフを戸惑いと混乱に陥れます。実在する、とてつもない力を持つ恐ろしい何者かが、自分を滅ぼそうとしているように感じたのです。」
一言でいうと、姿は見えないが足音は聞こえる、と言う状況だということが理解できます。
そしておそらく足音の主がジョセフの祈りの邪魔をしようとしていた、ということです。
この出来事を当時の彼の追い詰められた精神が作用した幻覚、幻聴の類と一蹴することは可能かも知れませんが、ほぼ同じ記述は旧約聖書にも記されています。
ヨブ記第4章12節から紹介します。
「さて、わたしに、言葉がひそかに臨んだ。
わたしの耳はそのささやきを聞いた。
すなわち人の熟睡するころ、
夜の幻によって思い乱されている時、
恐れがわたしに臨んだので、おののき、私の骨はことごとく震えた。
時に、霊があって、わたしの顔の前を通り過ぎたので、私の身の毛はよだった。
そのものは立ち止まったが、私はその姿を見分けることはできなかった。
一つのかたちが、私の目の前にあった。
私は静かな声を聞いた。」
これはヨブの友人の一人である『エリパズ』の語ったことです。
彼は霊の出現を身をもって体験したことが記されています。
一つのかたちが彼の顔の前を通り過ぎたものの、姿は見えず、その声だけが聞こえました。
身の毛はよだち、その骨が震えたのです。
『骨が震えた』という記述は現代風にいうなら『体が震える』ということでしょう。
さて、この日にジョセフが経験した事、すなわちこれの体の自由を奪ったものの正体について、ジョセフ自身は
『目に見えない世界から来た実在する何者か』
と呼んでいます。
聖典の中にも教会からの出版物の中にもこれ以上の言及はありませんが、教会の指導者たちは総大会の中で時折りジョセフの経験を題材として話し、この正体を『サタン』であるとしています。
『総大会』については機会を改めて説明いたします。
サタンの正体
『サタン』という言葉は、現代を生きる私たちもどこかで聞いたことがあると思います。
最近ではさまざまな媒体のゲームなどにその名が登場しています。
ですが、そもそもサタンというものが一体何なのかをはっきりと理解しておられる方はそれほど多くないのではないでしょうか。
聖典からの引用も交えてざっくり説明します。
まず『サタン』という言葉はヘブライ語においては『サーターン』と少し伸ばして発音しますが、これは『敵対するもの』や『妨げるもの』などを意味します。
固有名詞ではなく、あくまで普通名詞として使われています。
そこから『神に敵対する者』という意味で使われたりします。
キリスト教や聖書に興味がある方でしたら、イザヤ書に記されたサタンについてご存知かもしれません。
イザヤ書第14章12節から15節まで引用します。
『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。
もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。
あなたはさきに心のうちに言った。
「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果てなる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう。」
しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』
ここで言われる『黎明の子、明けの明星』とは本来は当時のバビロニアの王を指したものなのですが、同時に天から落とされた天使のひとりを指していることでも有名な預言です。
イザヤという預言者についてはまた機会を得て説明します。
さて、この落とされた天使について私たちの聖典のひとつである『教義と聖約』の中にも記述があります。
教義と聖約第76章25節から27節までを引用します。
『また、わたしたちはこのことも見たので証する。
すなわち、神の前で権威を持っていた神の一天使が、御父から愛されて御父の懐におられた独り子に背き、神と御子の前から落とされ、そして滅びと呼ばれた。
もろもろの天は彼のために泣き悲しんだからである。
彼は暁の子ルシフェルであった。
わたしたちは見た。
見よ、彼は落ちた。
暁の子でさえも落ちた。』
これは、1832年2月16日にジョセフ・スミス・ジュニアとシドニー・リグドンという人物が見た示現です。
この中でルシフェルという一天使が神と御子の前から落とされ、『滅び』と呼ばれたことが記されています。
この『滅び』と呼ばれた者がサタンです。
教義と聖約第76章28節にこのことが記されていますので引用します。
『私たちがまだ御霊に感じている間に、主はわたしたちに、その示現を書き記すように命じられた。
神に背き、私たちの神とそのキリストの王国を取ろうとしたサタン、年を経た蛇、すなわち悪魔を、わたしたちは見たからである。』
サタンを指すこれらの言葉は、『ヨハネの黙示録』に記されていますのでご存知の方も多いかもしれません。
ヨハネの黙示録第12章7節から9節までを引用します。
『さて、天では戦いが起こった。
ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。
そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。
この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落とされ、その使たちも、もろともに投げ落とされた。』
かつて暁の子と呼ばれていた者が仲間たちを惑わし、神とその御子に背き、地に落とされました。
彼がサタンであり、悪魔と呼ばれる者です。
聖典を読むと、『暁の子』であった者を指してサタン、悪魔と呼ぶこともあれば、彼の手下や使い達を同じように呼ぶこともあります。
つまり普通名詞として『サタン』と呼ばれる者たちの他にも、固有名詞としてのサタンも存在するということですね。
特に現代の日本において、悪霊とか悪魔とか呼ばれる存在を指して、神に敵対する者という意味での『サタン』と呼ぶことは少ないかもしれません。
そうではなく、悪魔、悪霊たちの首領であり、かつて暁の子、明けの明星と呼ばれた一天使個人を指して『サタン』と呼ぶ場合が多いように思います。
少しややこしくなりますが、いずれにせよ彼らの目的は私たち地上の人間をあらゆる手段を用いて欺き、神とその業から遠ざけることです。
彼らの目的のひとつを達成するため、冒頭で紹介した1820年の出来事が起こったのでしょう。
これは今から200年前に起こった事ですが、サタンや悪霊などと呼ばれる者たちは今現在でも彼らの目的を達成するために動き続けています。
彼らは肉体を持たない霊であるため、肉体を持つ私たちに容易に影響を与えることができます。
悪霊たちが我々に影響を与える手段は複数ありますが、霊であるが故に肉体を持つ人間に入り込むという方法があります。
これについては聖書にもいくつか事例として挙げられています。
マタイによる福音書第17章には、ある子供の親が自分の子供を癒してもらうよう、イエスに頼むというシーンがあります。
18節を引用します。
『イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出ていった。そして子はその時いやされた。』
他にも状況は異なりますが、マルコによる福音書第3章にこのような記述があります。
22節から引用します。
『また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。』
これはエルサレムの律法学者たちがイエスに対して言った言葉ですが、この当時から悪霊たちが人の肉体に入り込んで悪さをする、という概念はあったようです。
他にも聖典の中には悪霊が人の肉体に入り込んで肉体的、精神的に異常を来らせるという記述は複数あります。
サタンに対抗する
ジョセフ・スミスの話に戻りましょう。
『ジョセフ・スミスー歴史』より続きを引用します。
『しかし、わたしは自分を捕らえたこの敵の力から救い出してくださるようにと、あらん限りの力を尽くして神に呼び求めた。すると、わたしが今にも絶望し、破滅に身を任せようとしたその瞬間、すなわち想像上の破滅ではなく、目に見えない世界から来た実在する何者かの力、わたしがこれまでいかなる者にも一度も感じたことのないほどの驚くべき力を持った者の力に身を任せようとした瞬間、この非常な恐怖の瞬間に、わたしは自分の真上に、太陽の輝きにも勝って輝いている光の柱を見た。そして、その光の柱は次第に降りて来て、光はついにわたしに降り注いだ。』
よほど感激したのでしょう。
かなり描写がドラマチックです。
ともあれジョセフは全身全霊を以って神に叫び求めたことが記されています。
さらに続きます。
『それが現れるやいなや、わたしはわが身を縛った敵から救い出されたのに気づいた。そして、その光がわたしの上にとどまったとき、わたしは筆紙に尽くし難い輝きと栄光を持つ二人の御方がわたしの上の空中に立っておられるのを見た。すると、そのうちの御一方がわたしに語りかけ、わたしの名を呼び、別の御方を指して、「これはわたしの愛する子である。彼に聞きなさい」と言われた。』
これが私たちの教会で『最初の示現』と呼ばれる出来事です。
14歳のジョセフの前に姿を現したのは御父と御子であり、この時ジョセフは御子イエスから『どの教会にも加わってはならない』と言われました。
さらに、『彼らは人の戒めを教義として教え、神を敬うさまをするけれども神の力を否定している。』
とも告げられました。
この経験がジョセフの生涯の最後まで、あらゆる困難と苦痛と迫害の中でも彼を支える事になります。
まとめ
今回は以上になります。
『最初の示現』という出来事を経験し、結果としてジョセフの人生は苦難に満ちたものとなります。
ですが、彼には『完全な福音の回復』という、やらなければならない事が準備されていました。
現代を生きるわたしたちもまた、一人ひとりがなすべき事が準備されています。
人生の中ではさまざまな困難が起こります。
とくに今の時代、置かれた状況によっては精神的に追い詰められてしまい、社会から自分が隔絶されてしまったのではないか、と悲観する事があるかもしれません。
それでも諦めるべきではありません。
無責任な発言と思われるでしょうが、わたしたちは踠きながらでも最後まで諦めずに生きるべきなのです
次回は『最初の示現』を経験したジョセフが何を選択したのかをお話しします。
聞いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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