導入
みなさんこんばんは、かいです!
聴いてくださっている皆さんに感謝します。
ありがとうございます。
さて今回はゲッセマネについてお話しします。
クリスチャンでない方には聞き慣れないであろうこの言葉、『ツ』を大きく表示して『ゲツセマネ』と書くこともあります。
わたしたちの教会でこの単語を使用するときは主に『ゲツセマネ』の方を使いますが、ヘブル語やアラム語では『ゲッ・セマネ』に近い発音でもあり、わたしは個人的に『ゲッセマネ』の方が好きなのでこちらを使用してます。
祈りのススメ
この記事内にはわたしたちが所属する末日聖徒イエス・キリスト教会の聖典である新約、旧約の聖書とモルモン書、教義と聖約、高価な真珠の中から聖句を引用しています。
また総大会と呼ばれる教会指導者たちの勧告などのお話からも引用する場合があります。
クリスチャンである方もそうでない方も、聖句を読むとき、以下のことに注意を払っていただけましたら幸いです。
『見よ、わたしはあなたがたに勧めたい。あなたがたにとってこの記録を読むことが、神の知恵にかなうようであれば、あなたがたはこれを読むときに、アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで、主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。
また、この記録を受ける時、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。
そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。』
(『モロナイ書』第10章3節〜5節)
ゲッセマネとは
そもそもゲッセマネは聖書にも登場する、オリーブ山の北西あたりにあった地名です。
オリーブの木が植えられた庭園だったようです。
アラム語でのゲッセマネの意味は『オリーブしぼり』です。
イエスは十二使徒のひとりであったユダ・イスカリオテが裏切った夜、この園へ行き、そこで祈り、人類の罪のために非常な苦しみを受けられました。
このことは新約聖書の福音書やモルモン書にも収められています。
『それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。』
(『マタイによる福音書』第26章36節、39節)
イエスは全人類の罪を引き受けた
また、末日の啓示にもゲッセマネの園での主の苦しみが示されました。
『それゆえ、わたしは、悔い改めるようにあなたに命じる。わたしの口の鞭によって、わたしの憤りによって、またわたしの怒りによって打たれて、つらい苦しみを被ることのないように、悔い改めなさい。これらの苦しみがいかにつらいか、あなたは知らない。いかに激しいか、あなたは知らない。まことに、いかに堪え難いか、あなたは知らない。
見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。
しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。
その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。
しかしながら、父に栄光があるように。わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。』
(『教義と聖約』第19章15節〜19節)
イエスが贖いの祈りをゲッセマネで行ったことは実に象徴的です。
彼の行った贖いと受けた苦しみは、まさにオリーブの油を絞るように最後の一滴まで、つまり全ての人類の最後の一人にまで及ぶからです。
主の贖いについて2016年の総大会からお話を紹介します。
『神の尊い愛の代価について考えてみましょう。私たちの罪を贖い、私たちを死から贖うために、肉体的にも霊的にも苦しまれたイエスは、その苦しみをこのように明かしておられます。「神であって、しかもすべての中で最も大いなるものであるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。」ゲツセマネと十字架上での苦しみは、死すべき人にとっては耐えようのないものでした。にもかかわらず、主は御父と私たちへの愛のゆえに、堪え忍ばれ、結果的に、不死不滅と永遠の命を私たちにもたらすことができるようになりました。
「あらゆる毛穴から血が流れ出る」という言葉は、きわめて象徴的です。イエスは、オリーブ絞りの地、ゲツセマネで苦しまれたからです。救い主の時代には、オリーブ油を生産するのに、まずオリーブの上に大きな石を転がして潰しました。その「すり潰されたオリーブ」を、ゆるく編んだ柔らかい籠に入れ、その籠を積み重ねました。その重みで一番搾りの最も上質な油が搾り出されます。次に、積み重ねた籠の上に大きな梁や丸太を乗せて圧力をかけ、さらに多くの油を生産しました。最後に、文字通り最後の一滴まで搾り取るために、梁の片方の端を石で重くして、最大限の圧力を加えました。ちなみに、最初に流れ出る油は血の色をしています。
あの運命の夜、ゲツセマネに足を踏み入れた救い主に関するマタイの記録を思い出します。
主は「悲しみを催しまた悩みはじめられた。……
そして少し進んでいき、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ、もし出来ることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』。」
それから、その苦痛はさらに激しさを増したと思われ、主はもう一度苦痛からの解放を嘆願されます。最後に、恐らく苦しみの極みのときに、さらにもう一度嘆願されました。正義が最後の一滴まで満たされるように、主は、その激しい苦痛を堪え忍ばれたのです。それは皆さんやわたしを贖うためでした。』
(『わたしの愛のうちにいなさい』より画像含めて一部抜粋 D・トッド・クリストファーソン 2016年10月総大会)
さいごに
第三十九回でも少しお話ししましたが、イエスは全人類を死から贖うためにその命を捧げました。
これが贖罪です。
自らの命を捧げるに先立ちイエスはゲッセマネで、我々では死ぬ以外に耐えようがないほどの非常な苦しみに身を置き、それに堪えられました。
すべてはわたしたちに永遠の命を与えるためです。
それほどまでに神は私たちを愛しておられるのです。
『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』
(『ヨハネによる福音書』第3章16節)
神の愛を感じたり理解することが難しいという方もいらっしゃると思いますが、心をかたくなにせず知ろうと求めるならば、このことについて知る時が必ずくるでしょう。
今回はここまでにしましょう。
聴いて下さってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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