導入
みなさんこんばんは、かいです!
今回はわたしたちが守る律法のうち、もしかしたら教会外の方からすると理解に苦しむかも知れないもののひとつ、『奉献の律法』についてお話しします。
この律法については正確に理解していただかないとおかしな誤解を招く可能性が高くなりますので、今回も聖典、教会の出版物を参照します。
奉献の律法とは?
奉献の律法は古代の聖徒たちも受け入れて生活していました。
聖典の中には言葉こそ違えど、明らかに奉献の律法のことを指している聖句が見つかります。
古代から受け入れられていた奉献の律法
『そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう。」』
(『出エジプト記』第32章29節)
また、旧約の時代のみに終わらず、新約の時代にもありました。
『信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、
資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの物に分け与えた。』
(『使徒行伝』第二章44、45節)
イエスが復活したのち、約束の地(現代でいうアメリカ大陸)に暮らしていたニーファイ人やレーマン人の前に御姿を現されましたが、彼らはイエスから教えを受け、正しい生活を送ることができたと記されています。
『また、彼らはすべてのものを共有したので、物持ちも貧しい者も、束縛された者も自由な者もなく、皆自由となり、天の賜物にあずかる者となった。』
(『ニーファイ第四書』第1章3節)
『主はその民をシオンと呼ばれた。彼らが心を一つにし、思いを一つにし、義のうちに住んだからである。そして、彼らの中に貧しい者はいなかった。』
(『モーセ書』第7章18節)
近代に回復された奉献の律法
近代になっては1831年2月、主によってジョセフ・スミスに啓示されました。
主は聖徒たちに、奉献の律法に従って生活し始めるようにと啓示を与えられました。
これは教義と聖約第42章に記されています。
『また見よ、あなたは貧しい者(*1)を思い起こし、破ることのできない聖約と証書をもって、彼らに分け与える必要のある分を、彼らの扶養のためにあなたの財産のうちから奉献するであろう。
あなたがたが貧しい者に持ち物を分け与えるのは、すなわち、わたしにするのである。それらは、わたしの教会のビショップ、ならびに彼がその目的のために指名して任命する、あるいは指名して任命した、二人の長老または大祭司である顧問の前に置かなければならない。
それらをわたしの教会のビショップの前に置いた後、また、ビショップがわたしの戒めにかなって、それらを教会からは取り去ることはできないという、わたしの教会の財産の奉献に関するこれらの証書を受け取った後、すべての人はわたしに対して責任を持ち(*2)、自分自身の財産、すなわち、奉献によって受け取った自分自身と家族に足りる分の財産の管理人とされる。
さらにまた、この最初の奉献ののち、教会または教会の誰か個人の手に、自らの生活に必要な分以上の財産、すなわちビショップに奉献すべき残余があれば、持っていない人々に折々与えるためにそれを蓄えて、困窮しているすべての人が十分に供給を受け、彼らの入り用に応じて与えられるようにしなければならない。
それゆえ、残余はわたしの倉に蓄えておき、教会の高等評議会、およびビショップとその評議会が指定するままに、貧しい者と乏しい者に与えるために、
また教会の公益のための土地を買い、礼拝の家を建て、この後啓示される新エルサレムを築くために使うようにしなければならない。
それは、わたしが神殿に来るその日に、わたしの聖約の民を一つに集めるためである。わたしがこれを行うのは、わたしの民を救うためである。
また、罪を犯して悔い改めない者は、教会から追い出されなければならず、彼がわたしの教会の貧しい者と乏しい者のために奉献したもの、言い換えれば、わたしに捧げたものを、再び受けることはない。
あなたがたがこれらの最も小さい者にするのは、すなわち、わたしにするのである。
わたしの預言者たちの口を通してわたしが語ったことは成就する。わたしは、異邦人の中でわたしの福音を心から受け入れる者の富を聖別し、イスラエルの家に属するわたしの民の貧しい者に与えるからである。』
(『教義と聖約』第42章30節〜39節)
主が心を配られる者
聖典には、(*1)で示していますように主が貧しい者に対して思いやりをお示しになる御言葉が何度も記されています。
これについて、モルモン書から引用できる部分があります。
『そしてまた、あなたがたは自分自身でも、助けを必要としている人を助け、乏しい人に自分の持ち物を与えるであろう。また、物乞いがあなたがたに請い願うのに応じないで、追い払って死なせるようなことをしないであろう。
あるいは、あなたがたは次のように言うかもしれない。「その人は自分でその不幸を招いたのだから、わたしは手を差し伸べない。彼が苦しまなくて済むように食物を与えることはしないし、持ち物を分けることもしない。彼が罰を受けるのは当然なのだから。」
しかし、おお、人々よ、わたしはあなたがたに言う。このようにする者はだれでも、大いに悔い改める必要がある。このような者は、自分の行なってきたことを悔い改めなければ、とこしえに滅びて、神の王国にあずかることはない。
見よ、わたしたちは皆、物乞いではないだろうか。わたしたちは皆、もっているすべてのものについて、すなわち食物も衣服も、金も銀も、そのほか持っているあらゆる富について、同一の御方、すなわち神に依存してはいないだろうか。
そして見よ、今でさえあなたがたは神の御名を呼び、罪の赦しを請い願っている。神はあなたがたが請い願うのに応じないで、聞き流してこられただろうか。いや、神はあなたがたに御霊を注ぎ、あなたがたの心を喜びで満たし、あなたがたが語る言葉を見いだせないで口をつぐむほどにされた。それほどあなたがたの喜びが非常に大きかったのである。
さて、もしもあなたがたを造られた神、あなたがたが自分の命についても自分の持ち物と能力のすべてについても頼っている神が、あなたがたが必ず与えられると信じて、信仰を持って求める正当なものを、なんでもすべて与えてくださるとすれば、ましてあなたがたは、自分たちの持っている者を互いに分かち合って当然ではないだろうか。
また、死を免れるために物乞いをする人を、あなたがたが裁いて罪に定めるならば、自分の持ち物を与えないことで罪に定められることの方が、もっと理にかなってはいないだろうか。あなたがたの持ち物はあなたがたのものではなく、神のものであり、命もまた神のものである。にもかかわらず、あなたがたは神にまったく物乞いをせず、自分の行なってきたことを悔い改めもしない。
わたしはあなたがたに言う。そのような者は災いである。その持ち物はその者とともに滅びるからである。わたしはこれらのことを、この世のものに富んでいる者たちに告げる。
さらに、わたしは、富めるほどではないが、日々の生活には足りるほどのものを持っているあなたがた貧しい人々、すなわち、自分にはないからということで、物乞いに与えることを断るあなたがたに言う。あなたがたは心の中で、「わたしにはないので与えないが、もしあれば与えるであろう」と言うようにしてほしい。
さて、心の中でこう言うかぎり依然として罪はない。そうでなければ罪に定められる。まだ得ていないものをむさぼるのであるから、罪の宣告を受けて当然である。
さて、あなたがたに語ってきたこれらのことのために、すなわち、神の御前を罪なく歩めるよう、日々罪の赦しを続けて受けるために、自分の持っている分に応じて、それぞれ持ち物を貧しい人に分け与えるようにしてほしい。例えば、飢えている人に食べさせ、着る物のない人に着せ、病人を見舞い、各々の入り用に応じて霊的にも物質的にも助けを与えることである。』
(『モーサヤ書』第4章16節〜26節)
奉献とは?
ではそもそも奉献とは何なのか、と言うことですが、私たちの教会の中で使われる奉献という言葉が持つ意味は、主の奉仕の業のために何かを聖別しておく、あるいはささげるということです。
奉献の律法とは、神の王国の建設と確立のために時間や才能や財産を進んでささげるという、神から与えられた原則です。
奉献の律法の目的
奉献の律法によってささげられたものは先ほど紹介しましたように、貧しい者と乏しい者に与えるため、また教会の神殿を建設するため、そして新エルサレムを築くために使用されます。
では、そもそもその目的は何でしょうか。
これも教義と聖約に記されている部分を引用します。
『さらにまた、あなたは心の中で高ぶってはならない。あなたの衣服はすべて簡素で、その美しさはあなた自身の手の業の美しさであるようにしなさい。
また、すべてのことがわたしの前に清く行われるようにしなさい。
あなたは怠惰であってはならない。怠惰な者は働く者のパンを食べてはならないし、その衣服も着てはならないからである。』
(『教義と聖約』第42章40節〜42節)
『また、わたしがあなたがたに命じたように、あなたがたが一つとなるために、すべての人がこの民の中で正直に振る舞い、平等であり、等しく受けるようにしなさい。』
(『教義と聖約』第51章9節)
『まことに、わたしはあなたがたに言う。時は来ており、今や近い。見よ、見よ、この地においてもシオンの地においても、わたしの民の中の貧しい者のために倉の諸事を整え確立するに当たって、わたしの民の組織があることが必要である。
人の救いと、天におられるあなたがたの父の栄光のために、あなたがたが指示してきた大義を推し進める目的を持って、わたしの教会の不変かつ永遠の組織と制度としてそれが必要である。
それは、あなたがたが天のものとのきずなにおいて平等となり、また天のものを得るために地上のものにおいても平等となるためである。
あなたがたは地上のものにおいて平等でなければ、天のものを得ることにおいて平等にはなれないからである。
あなたがたは、わたしから日の栄えの世界で一つの場所を与えられることを望むならば、わたしがあなたがたに命じ、あなたがたに求めてきたことを行うことによって、自らを備えなければならない。』
(『教義と聖約』第78章3節〜7節)
ここに示されているように、奉献の律法とは単に物資や経済を目的としたものにとどまらず、教会員が霊的に成長し、永遠の命に備えるように助けるための、霊的な律法でもあります。
奉献と管理の職
クリスチャンの皆さんでしたらお分かりだと思いますが、かつて地上に存在したエノクの町に住む民はこの律法を完全に成し遂げていました。
エノクの民は「心を一つにし、思いを一つにし」、また「彼らの中に貧しい者はいなかった」とあります。
1831年1月、ジョセフ・スミスはニューヨーク州において、その地に住む聖徒たちに、オハイオ州に移住するように指示する啓示を受けました。
主は、オハイオの地で律法を授けると言われました。
そのオハイオ州では、アイザック・モーリー、ルーシー・モーリー夫妻の農場で新しい改修者のグループが共同生活をしていました。
彼らは、新約聖書の時代、理想的な生活であるとみなしていた、すべての物を共有する暮らしを実践しようとしていたのです。
ジョセフ・スミスは、モーリー一家の共同生活は賞賛には値するものの、支持はできないと判断しました。
そして、ジョセフ・スミスと数人が祈りを捧げ、啓示を受けました。
これについてひらたく言いますと、モーリー一家と共同生活をしている人々が行なっているように、持ち物を共有するのではなく、奉献されたものはビショップを通して主に譲り渡されます。
ですが、自分のために必要な土地と家財の管理の職、すなわち事実上の所有権は保持していました。
彼らは自らが余剰とみなすものは何であれ、貧困を緩和し、シオンを建設するために教会に差し出しました。
初期の教会においてビショップの職のおもな役割は、奉献の律法を管理運営することでした。
そして、この当時ビショップとして召されたのがエドワード・パートリッジという人物です。
奉献の律法に正しく従うこと
奉献の律法の実施が困難であることは明らかであり、需要は常に供給源を上回っているように思えました。
オハイオ州とミズーリ州に到着した聖徒の多くが貧困にあえいでおり、教会はシオンの土地を購入して家屋を建てる必要がありました。聖徒たちはまた、近隣の人々による敵対行為に直面していました。
共同商会、すなわち1832年に教会財政の管理運営を担っていた評議会の会員たちは、支出の優先順位の決め方に関して意見を異にしていました。聖徒の中には、自分が剰余と考えるものを惜しみなくビショップに差し出す者もいれば、土地や財産を手元に置いておくことに執着する者もいたのです。
1838年に与えられた二つの啓示は、奉献の律法の一部として什分の一の律法を紹介するものでした。
これらの啓示によると聖徒たちは、財産の剰余分を奉献した後、「毎年彼らの得る全利益の十分の一」を差し出すべきであると教えられています。
後の預言者たちも、什分の一は教会員が奉献の律法に従って生活するための手段の一つであると、重ねて強調しています。
奉献の律法の基本となる原則は一貫していますが、聖徒がその律法を実践する方法は、状況の変化に応じて、預言者の指示の下に変化してきました。例えば、ブリガム・ヤングは、ユタ州および周辺全域に協同組合を設立するよう奨励しました。
開拓者の定住を助け、聖徒の経済活動を個人主義によるアメリカ経済ではなく、ジョセフ・スミスの啓示にさらに沿ったものにするためです。時には「共同制度」と呼ばれることのあるこうした協同組合は、19世紀末、グレートベイスン地域の至る所で、異なるコミュニティーによって様々な形で実施されていました。
什分の一の支払いに加え、聖徒たちは主の業を遂行するために、多様な方法で自分の時間や才能、手段をささげました。カートランドにおける初期には、聖徒たちは貧しい人々のために断食献金を納めました。ノーブーにおいて、後にはユタ州において、扶助協会の女性たちは地元および中央の教会指導者と調整して、困っている人々の必要を満たしました。教会員は「永代移住基金」に財産を寄付することで、聖徒とともにユタ州に集合することを願う海外の改宗者の旅費を負担しました。1930年代には教会の福祉プログラムが設立され、大恐慌による壊滅的な経済状況の下で苦しむ人々を支援しました。2001年、教会の大管長、ゴードン・B・ヒンクレーは「永代教育基金」を設立し,経済的に恵まれない世界各地の教会員が教育の機会を得られるようにしました。
こうしたプログラムはそれぞれ、啓示によって打ち立てられた奉献の律法の目的に応じるものです。すなわち貧しい人と困っている人の世話をし、愛をもってともに生活し、怠惰を避け、教会の発展を支援するためのものなのです。
(『奉献と管理の職』https://www.churchofjesuschrist.org/study/history/topics/consecration-and-stewardshipより引用)
さいごに
奉献の律法は主から回復が示されたのち、それを受け入れることができた者とそうではない者に分かれました。
初期の聖徒たちの一部は『すべての物の共有』を誤って理解していた人がいたためです。
また、どうしても自分の財産を手放すことに抵抗がある者たちもいたようです。
それによって現代のわたしたちはひとつ低い律法である『什分の一』の律法を守るように勧められています。
その名の通り、全収入のうち10%を聖別して主に奉献します。
これらは初期の聖徒たちの時代に行われていたのと同様、世界中の神殿建設などに使われます。
誤解がないように申し上げますと、これもまた律法ですから、守るか守らないかは個人の選びに任されています。
それに、わたしたち会員は誰がどのくらいの什分の一を奉献しているかを知ることはできません。
ただ、この律法は主が私たちに教えられた戒めである『わたしを愛するならば、わたしの戒めを守るべきである』という教えと、『あなたがたは神を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』という教えを実行することができる素晴らしい律法であると思います。
今回はここまでにしましょう。
聴いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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