導入
みなさんこんばんは、かいです!
聴いてくださっているみなさんの時間を今、分けてくださっていることに心から感謝します。
ありがとうございます。
さて、クリスチャンの方であればイエスを救い主として信じていると思いますが、同じように人の復活についても信じておられるのではないでしょうか。
人の復活について記された聖文は多くあります。
人の復活
聖書の中にある記述から見てみましょう。
『しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
それは、死が一人の人によってきたのだから、死人の復活もまた、一人の人によってこなければならない。
アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。』
(『コリント人への第一の手紙』第15章20〜22節)
ここでいう復活とは、霊の状態にとどまるのではなく、不死不滅の肉体を持ってよみがえることを指します。
死人の中からよみがえったイエスもまた、肉体を持っていました。
『こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕
彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。
そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
私の手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。
〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕
彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。
彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、
イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。』
(『ルカによる福音書』第24章36節〜43節)
イエスと同じように、わたしたちは皆不死不滅の肉体をとってよみがえりますが、全員が同じ状況で復活するのではないようです。
このことについて触れている聖文を聖書の中から見ましょう。
『すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。
天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属する者の栄光と違っている。
日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。
死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、』
(『コリント人への第一の手紙』第15章39節〜42節)
人は生前の行いや思いによってそれぞれ栄光を受けるか、あるいはサタンや彼の使いたちと同じように栄光の外の暗闇に放り出されます。
この栄光(の王国)は上記のように三つに分けられていますが、それぞれの栄光もいくつかに分けられているようです。
現代の啓示にもこれに触れたものがあります。
『このように、わたしたちは天の示現の中に星の栄えの世界の栄光を見たが、それは人知ではとうてい計り知れないものである。
神からそれを示された者のほかには、だれもそれを知らない。
このように、わたしたちは月の栄えの世界の栄光を見たが、それはあらゆる点で、すなわち栄光において、力において、威勢において、支配において、星の栄えの世界の栄光に勝っている。
またこのように、私たちは日の栄えの世界の栄光を見たが、それはあらゆる点で勝っている。ここにおいて、神すなわち御父は、とこしえにいつまでもその御座について治めておられる。
その御座の前に、全てのものが恭しく身をかがめ、とこしえにいつまでも神に栄光を帰するのである。
神の前に住むものは長子の教会である。彼らは神の完全と神の恵みを受けたので、彼らが見られているように見、彼らが知られているように知る。
また、神は力において、威勢において、支配において、彼らを等しいものとされる。
太陽の栄光が一つであるように、日の栄えの世界の栄光は一つである。
また、月の栄光が一つであるように、月の栄えの世界の栄光は一つである。
また、もろもろの星の栄光が一つであるように、星の栄えの世界の栄光は一つである。ある星と別の星との間に栄光の違いがあるように、星の栄えの世界においては、あるものと別のものとの間に栄光の違いがある。
(『教義と聖約』第76章89〜98節)
復活の順序
さらに、全ての人が同じときに復活を受けるのでもありません。
先ほど引用した『コリント人への第一の手紙』の続きにこのように記されています。
『アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、』
(『コリント人への第一の手紙』第15章22、23節)
この聖文の中で『キリストに属する者』と書かれているのは最後まで、つまり死ぬまで正しい人であった者たちを指します。
キリストが復活したのち、彼らが復活を受けました。
聖書から読んでみましょう。
『また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。
そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。』
(『マタイによる福音書』第27章52、53節)
モルモン書を世に出すにあたり、約1400年前に死んだ預言者モロナイも復活を受け、天使の一人となって当時14歳であったジョセフ・スミスに現れました。
彼もまた、『主の来臨に際してキリストに属する者』であったためです。
第一の復活
人の復活について聖文の中に出てくるのが『第一の復活』、『第二の復活』という言葉です。
第一の復活について述べている箇所を紹介します。
『しかし見よ、死の縄目は断たれ、御子が統治し、死者を治める力を持たれる。そこで、御子は死者の復活をもたらされる。
こうして、復活が起こる。これは第一の復活、すなわち、過去の人々と、現在の人々と、キリストの復活までの将来の人々の復活である。御子はキリストと呼ばれる。
さて、すべての預言者と、預言者たちの言葉を信じた人々、すなわち神の戒めを守ったすべての人の復活は、最初の復活の時にある。したがって、その復活は第一の復活である。
彼らはよみがえって、彼らを贖ってくださった神とともに住む。このようにして彼らは、死の縄目を断ってくださった キリストによって、永遠の命を得るのである。
彼らは、第一の復活にあずかる人々である。また、これらの人々こそ、救いのことを告げ知らせれなかったために無知のままで。キリストが来られる前に死んだ人々である。主はこれらの人々に回復をもたらされる。そして彼らは、主に贖われて第一の復活にあずかり、永遠の命を得る。
また、幼い子供たちも永遠の命を得る。
しかし見よ、あなたがたは神の御前で畏れ、震えおののきなさい。あなたがたは震えおののいて当然である。主は、ご自分に背いて罪の中で死ぬ者、すなわち、世界が始まって以来、故意に神に背き、神の戒めを知っていながらそれらを守ろうとせず、罪の中に滅びてしまったすべての者については、決して贖いをなさらないからである。これらの者は、第一の復活に決してあずかれない者たちである。』
(『モーサヤ書』第15章20節〜26節)
この中で「キリストの復活までの将来の人々』と書かれていますが、この理由は上記の文を話したアビナダイという人物が生きていたのが紀元前約148年頃であり、イエスがまだ地上に来られていなかったためです。
さいごに
アビナダイが述べたように、救いの業を知らずに死んだ人たちもまた、イエスによって贖われています。
幼くして亡くなった子供たちも同様です。
主が贖いをなさらないのは、神の戒めを知っていながら故意に背いた者たちです。
人には神によってあらゆるものを自由に選択する特権が与えられており、人が自らの意思で選んだことを覆すことはたとえ神であってもできないためです。
次回は正しくない者の復活についてお話しします。
聴いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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