福音ラジオ 第十二回『永遠の命』

目次

導入

みなさんこんばんは、かいです。

聞いてくれているみなさんの時間を今、分けてくださっていることに心から感謝しています。

ありがとうございます。

さて、前回まででイスラエルの集合についてざっくりと説明をしました。

今回は『永遠の命』についてお話しします。

今回のお話にもわたし個人の考えがいくらか含まれます。

聖典、教会の出版物を参照していますが、わたし個人の考えについては教会の公式な発表とは異なることを明言します。

永遠の命

永遠の命という言葉を聞くとどのような印象を受けるでしょうか。

現実世界で言うと、例えば古代中国における始皇帝が不老不死の妙薬を求めていただとか、錬金術を用いて作るエリクサーという霊薬だとか言う話を聞きます。

さらに古い話ですと、北欧神話やギリシャ神話などにも不老不死のキャラクターが登場したりしますので、それが事実かどうかは別として意外と身近にある概念なのかもしれません。

聖典に登場する永遠の命

ヨハネによる福音書の中で、永遠の命と言う言葉が出る箇所があります。

『朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである。』

(『ヨハネによる福音書』第17章27節)

この一文だけを読んでも意味がわからないと思います。

イエスがこの言葉を述べた背景はこうです。

イエスが病人を癒す、という奇跡を起こすのを目の当たりにした人々は、大勢の群衆になってイエスと弟子たちについて来ました。

イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこに座り、大勢の人たちもついて来るのを見て、弟子のひとりにこう言います。

「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか。」

弟子のひとりがこう言います。

「パン五つと魚二匹を持ってる子がいますよ。とはいえこんなに大勢の前では何にもなりません。」

イエスは群衆を座らせました。

彼が感謝して食物を分け与えると、その場にいた群衆は男性だけで5000人ほどもいましたが、彼ら全員が満足するほど食べ、さらに残ったパンくずは12のカゴいっぱいになりました。

人々はイエスが行なったこの奇跡を見て、「彼こそ世に来たるべき預言者である」と言いました。

それからおそらく数日は経ったでしょう。

イエスと弟子たちはカペナウムという場所にいました。

群衆たちもイエスと弟子たちを探し回り、ガリラヤ湖の向こう岸までやってきて、イエスに出会えたのでこう言いました。

「先生、いつ、ここにおいでになったのですか。」

群衆から出た質問に対してイエスはこう答えました。

「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。」

うーん。なかなか辛辣ですね。

そしてイエスは、紹介した第27節の言葉を口にしました。

『朽ちる食物』とは、いうまでもなくこの時代に普通に食卓に上がった食物のことです。

では、『朽ちない食物』とは何でしょう。

このヒントとなる一文があります。

『神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである。』

(『ヨハネによる福音書』第17章33節)

これは群衆たちが、「あなた(イエス)を信じるためにどんな奇跡を見せてくれるんですか?俺たちの先祖はモーセに率いられていた時に『天からのパン』と書かれてあるマナを食べて生き延びましたよ!あれはモーセが起こした奇跡ですよね!さあさあ。』とつめよっている時、答えた言葉の続きとなる文です。

この群衆、冗談かと思うくらい貪欲なわけですが、まあ気にせずいきましょう。ではこの前半となる文を紹介します。

『そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。』

(『ヨハネによる福音書』第17章32節)

この32節もよく読めばイエスのことを指していると判りますが、35節で答えを述べています。

『イエスは彼らに言われた。「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」

(『ヨハネによる福音書』第17章35節)

ここでイエスは『わたしが命のパンである』と言っています。つまり、朽ちない食物こそがイエスだという事になります。

27節に戻りますと、『永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい』。

これを言い換えると『永遠の命に至るイエスのために働くがよい』となります。

つまり、イエスのために働くことが永遠の命に至る手段だということです。

とはいえ彼の身の回りの世話をしろとか、そういった類のものではもちろんありません。

戒めを守り、神の福音を宣べ伝えなさい、という意味です。

イエスは弟子たちの中から十二人を選び、彼らに神権を授け、『使徒』という職を与え、世界中に出てゆき、福音を述べ伝えるように命じました。

これがイエスのために働くという意味です。

『これは人の子があなたがたに与えるものである。』

『これ』とは永遠の命のことです。

『人の子』とはイエスを指します。

つまり永遠の命はイエスによって与えられるのだということになります。

聖なる『人』

ちょっと話がずれますが、『人の子』がイエスのことであるならば、御父は『人』という事になります。

養父であるヨセフの子であるから人の子と言うのではありません。

ではこの表現が正しいのか、というと正しいのです。

ここで使われる『人』と言う言葉の意味をさらに正確にいうと、御父すなわち永遠の父なる神は『聖なる人』と表現されます。

『それゆえ、あなたの子供たちに次のことを教えなさい。すなわち、どこにいる人でもすべての人が、悔い改めなければならない。そうしなければ、決して神の王国を受け継ぐことはできない。清くない者はそこに住むことができない、すなわち、神の前に住むことができないからである。アダムの言葉で、聖なる人とは神の名である。また、神の独り子の名は、人の子、すなわちイエス・キリストであり、時の中間に来る義にかなった裁き主である。』

(『モーセ書』第6章57節)

さまざまな点で不完全であるわたしたちとの対比で『完成された人』と表現される方もいると思います。

永遠の父なる神であるエロヒムは、かつては私たちと同じようにひとりの人として地上に住んでいました。

受け入れ難いと思われるでしょうが、これは非常に大切な事実であり、私たちは知って理解しておく必要があります。

この事実を示唆する聖文はいくつもあります。

『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。』

(『創世記』第1章27節)

『このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。』

(『使徒行伝』第17章29節)

『それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。』

(『マタイによる福音書』第5章48節)

『それで、彼らは神々となる。彼らには終わりがないからである。それゆえ、彼らは続くので永遠から永遠に至り、すべてのものが彼らに従うので、彼らはすべてのものの上にあるであろう。それで、彼らは神々となる。彼らは一切の権威を持ち、天使たちが彼らに従うからである。』

(『教義と聖約』第132章20節)

ここでいう『彼ら』とは日の栄えの律法に従う人々を指しています。

御父はかつて人であった時、『昇栄(しょうえい)』を受け、王座につきました。

この『昇栄』と言う単語はわたしたち教会員以外の方はご存知ないと思います。

そもそも英語訳されたモルモン書でのこの言葉は”exaltation”となっており、その意味は『高揚』です。

モルモン書を日本語訳するとき、翻訳に携わった方が『高揚』よりも相応しく適切な言葉があるのではないか、と熟慮した結果生み出された造語です。

ではこの昇栄とは何でしょうか。

昇栄

キリスト教徒の方でしたら、聖書の中にも言及されている『三つの栄えの王国』をご存知だと思います。

人が死後において到達できる三つの段階の栄えのことです。

『天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。

日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。』

(『コリント人への第一の手紙』第15章40、41節』

キリスト教で言われる『最後の裁き』において、滅びの子を除くすべての者がそれぞれふさわしい栄光の王国に入り、永遠の住まいを与えられます。

誤解の無いように申し上げますと、『最後の裁き』と『主の再臨』は異なります。

主の再臨ののち地は焼き尽くされますが、その後福千年と呼ばれる期間が続きます。

この間サタンは縛られ、人を惑わすことができませんが、福千年の終わりに彼は解き放され、再び人々を誘惑するようになります。

『またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。

彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、

そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。』

(『ヨハネの黙示録』第20章1節〜3節)

『千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。

そして、出ていき、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。

彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽くした。

そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。』

(『ヨハネの黙示録』第20章7節〜10節)

『また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。

海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。』

(『ヨハネの黙示録』第20章12、13節)

この最後の節にあるのが『最後の裁き』です。

わたしたちは、そのしわざ、つまり思いと行いによって裁かれます。

そして、滅びの子にならなかった方はいずれかの王国を受けるわけですが、この王国もいくつかの階級に分けられています。

そのいちばん上の位、すなわち日の栄えの王国の中でも最も幸福に満ちた状態が『昇栄』です。

昇栄を受けた人

私たちの父なる神であるエロヒムは人として生き、この昇栄を受けました。

ここまでは判っています。ですが、彼が人であった時の『神』は誰なのか、どこの星に住んでいたのか、などの情報は全く判りません。

一部考えられる説はあるにはありますが、根拠の明示が難しいのでここでは触れないでおきます。

主が来られるときにさまざまなことが明らかにされる、と聖典にはありますが、おそらくこの類のことは日の栄え、若しくは昇栄を受ける方でなければ明らかにはされないのではないかと思います。これはあくまでもわたし個人の考えですが。

ところで、私たちの世界で生きていた人物の中にもこの昇栄を受けた人がいます。

『主は言う。アブラハムは、啓示と戒めによって、すなわちわたしの言葉によって、彼が受けたすべてのものを受け、そして昇栄に入ってその王座についている。』

(『教義と聖約』第132章29節)

『アブラハムはそばめたちを受け、そして彼女たちは彼のために子供をもうけた。そして、それによって彼は義と認められた。彼女たちは彼に与えられ、そして彼はわたしの律法の中にとどまったからである。イサクもヤコブも、命じられたことの他に何も行わなかった。そして、彼らは命じられたことのほかに何も行わなかったので、約束のとおりに昇栄に入り、王座に着いている。彼らは天使ではなく、神々なのである。』

(『教義と聖約』第132章37節)

ここにあるように、アブラハム、イサク、ヤコブの三人はすでに昇栄に入っています。

そして、昇栄に入るとは『神々になる』ことです。

御父エロヒムがそうであったように、私たちもまた、アブラハムたちのように神に忠実であり続けるならば、同じ祝福を受ける可能性があるのです。

ひとつ余談になりますが、福音の回復にあたり古代の預言者たちが何人も天使としてこの世に姿を現しましたが、偉大な太祖アブラハム、イサク、ヤコブの三人はこの回復の業に携わった形跡がありません。

それは、彼らが天使ではなく神々となっているため、新しい創造の業を開始しているためではないかと考えています。

近代の啓示からみる永遠の命

さて、わたしたちの聖典のひとつである『教義と聖約』から、永遠の命について記してある箇所を引用します。

『永遠の命とは、唯一の、知恵あるまことの神と、神の遣わされたイエス・キリストとを知ることである。わたしがその者である。それゆえ、あなたがたはわたしの律法を受け入れなさい。』

(『教義と聖約』第132章24節)

永遠の命とは『まことの神』とイエス・キリストを知ることであると簡潔に述べています。

さらにもうひとつ引用します。

『昇栄と命の存続に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。あなたがたがこの世でわたしを受け入れず、わたしを知らないからである。』

(『教義と聖約』第132章22節)

『見よ、人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である。』

(『モーセ書』第1章39節)

これは主がモーセに語られた言葉ですが、この聖文について考えてみましょう。

まずこの文の中で『不死不滅』と『永遠の命』が別のものとして語られています。

不死不滅は個人として受ける賜物になります。

では永遠の命はどうでしょう。

意味合いとしては不死不滅と同じものであるような印象を受けます。

永遠の命について、聖典から参照します。

『さらにまた、まことに、わたしはあなたがたに言う。もしある男がわたしの律法であるわたしの言葉によって、また新しくかつ永遠の聖約によって妻をめとり、そしてそれが、わたしからこの力とこの神権の鍵とを与えられた油注がれた者によって、約束の聖なる御霊により彼らに結び固められ、また彼らに、「あなたがたは第一の復活に出て来るであろう。もしも第一の復活の後ならば、次の復活に出て来るであろう。そして、王位、王国、公国、および力、主権、全ての高い所と深い所を受け継ぐであろう」と言われるならば、また殺人を犯して罪のない者の血を流してはならないと子羊の命の書に記されているので、あなたがたがわたしの聖約の中にとどまり、殺人を犯して罪のない者の血を流すことがなければ、わたしの僕が彼らに授けたすべての事柄は何であろうと、この世においても永遠にわたっても、彼らに行われ、彼らがこの世の外に去るときにも完全に効力があるであろう。そして、彼らはそこに置かれる天使たちと神々のそばを通り過ぎ、彼らの頭に結び固められたように、すべての事柄について昇栄と栄光を受けるであろう。その栄光とは、とこしえにいつまでも子孫が満ちて続くことである。

それで、彼らは神々となる。彼らには終わりがないからである。それゆえ、彼らは続くので永遠から永遠に至り、すべてのものが彼らに従うので、彼らはすべてのものの上にあるであろう。それで、彼らは神々となる。彼らは一切の権威を持ち、天使たちが彼らに従うからである。』

(『教義と聖約』第132章19、20節)

注目すべきは後半にある『その栄光とは、とこしえにいつまでも子孫が満ちて続くことである』という部分です。

子孫が満ちると言うことは男性と女性の結婚が必要になります。

それも、前半にあるように『新しくかつ永遠の聖約によって』婚姻関係を結ぶ必要があります。

さいごに

話が長くなりそうですので、今回はここまでにしましょう。

次回はこの続きをお話しします。

聞いてくださってありがとうございました。

またお会いしましょう。

おやすみなさい。

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この記事を書いた人

はじめまして。プロフィールを見てくださってありがとうございます。
少し自己紹介をさせてください。
よもやま かいといいます。香川県出身です。
キリストを信じる信仰を持つクリスチャンで、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員です。
絵を描くことが好きで、筆記具を集めたりしてます。

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