福音ラジオ 第三十四回『祈り』

目次

導入

みなさんこんばんは、かいです!

聴いてくださっているみなさんに感謝します。

ありがとうございます。

今回はクリスチャンにとって非常に大切な『祈り』についてお話しします。

正確にいうならクリスチャンならずとも神に祈るという行為は大切です。

それはなぜなのか?

聖典や教会の出版物などを参照して学びたいと思います。

祈りのススメ

この記事内にはわたしたちが所属する末日聖徒イエス・キリスト教会の聖典である新約、旧約の聖書とモルモン書、教義と聖約、高価な真珠の中から聖句を引用しています。

また総大会と呼ばれる教会指導者たちの勧告などのお話からも引用する場合があります。

クリスチャンである方もそうでない方も、聖句を読むとき、以下のことに注意を払っていただけましたら幸いです。

『見よ、わたしはあなたがたに勧めたい。あなたがたにとってこの記録を読むことが、神の知恵にかなうようであれば、あなたがたはこれを読むときに、アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで、主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。

また、この記録を受ける時、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。

そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。』

(『モロナイ書』第10章3節〜5節)

祈りとは

祈りとは、神に感謝し、祝福を願い求める、厳粛な神との交わりです。

祈りはイエス・キリストの名によって天の御父にささげます。

声に出して祈ることもありますし、心の中で唱えることもできます。また、神に向けられたものであれば、人が心に思うことも祈りといえます。

さらに義人の歌(讃美歌)もまた神への祈りとなります。

『わたしは心の歌を喜ぶからである。まことに、義人の歌はわたしへの祈りである。それに対する答えとして、彼らの頭に祝福が注がれるであろう。』

(『教義と聖約』第25章12節)

『主にむかって歌え、主をほめ歌え。そのもろもろのくすしきみわざを語れ。』

(『歴代史上』第16章9節)

主を礼拝する

御子の名によって神に祈るという行為は、最初の人であるアダムから始まりました。

アダムと妻エバが背きによってエデンの園から追い出されたのち、主は彼らに戒めを与えました。

それは、主なる神を礼拝すること、そして主へのささげ物として群れの初子をささげることでした。

『アダムとその妻エバは主の名を呼び、エデンの園の方向から彼らに語る主の声を聞いた。しかし、主を目にすることはなかった。彼らは主の前から締め出されていたからである。

主は彼らに、主なる彼らの神を礼拝し、主へのささげ物として群れの初子をささげるようにと戒めを与えた。アダムは主の戒めに従順であった。

多くの日の後、主の天使がアダムに現れて言った。「あなたはなぜ主に犠牲をささげるのか。」そこで、アダムは彼に答えた。「わたしにはわかりません。ただ、主がわたしに命じられたのです。」

すると、天使は語って言った。「これは、御父の、恵みと真理に満ちている独り子の犠牲のひながたである。

したがって、あなたが行うすべてのことを御子の御名によって行いなさい。また、悔い改めて、いつまでも御子の御名によって神に呼び求めなさい。」』

(『モーセ書』第5章4節〜8節)

主を礼拝するため、また主に祝福を求めて祈りをささげるとき、できる限り穏やかな心でいることは大切です。

また神に関わる事柄について瞑想し、十分に思い巡らせることも同様に大切なことです。

利己的であってはならない

わたしたちクリスチャンは日々何度も父なる神に祈りをささげます。

祈りは神に対する感謝で始まるべきだと、主は教え、ラッセル・M・ネルソン大管長もまたこの言葉に従っています。

感謝のキモチ

祈り​の​目的​は、神​の​御​心​を​変える​こと​で​は​なく、神​が​わたしたち​に​与えよう​と​すでに​備えて​おられる​祝福​を、自分​の​ため、また​人々​の​ため​に​得る​こと​で​す。しかし、それ​を​得る​には​求め​なければ​なりません。

『今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。』

(『ヨハネによる福音書』第16章24節)

祈りによって祝福を得たいと願うとき、まず神の戒めに従っていることが求められます。

祝福と戒めに従うことは切り離せません。正しい思いと正しい行いが合わさっていることを条件として、神から祝福を受けることができます。

例えとして、キリストを信じていると自称していても、気分が向いたときだけ稀に戒めに従い、普段は神への感謝も心に思わない人がいたとします。

この人が何かしらのトラブルに巻き込まれ、その解決を神に求めたとしても、祝福を受けられるかどうかはあやしいものです。

『主は悪しき者に遠ざかり、正しい者の祈を聞かれる。』

(『箴言』第15章29節)

また、苦難や試練を受けて苦しみ、神に解決を求め祈ったとしても、すぐさまその祈りが応えられるわけでもありません。

その理由はさまざまですが、ひとつが末日の啓示に記されています。

『主なるわたしは、彼らの背きのゆえに、彼らの受けている苦難が彼らに及ぶのを許した。

それでも、わたしは彼らを自分のものとする。わたしが来てわたしの宝石を集めるひに、彼らはわたしのものとなるであろう。

それゆえ、彼らは必ず懲らしめを受け、自分の独り子をささげるように命じられたアブラハムのように、試みられなければならない。

懲らしめに耐えないで、わたしを否定する者は皆、聖められることはあり得ないからである。

見よ、わたしはあなたがたに言う。彼らの中には、あつれきや争い、ねたみ、対立、およびみだらなむさぼりの欲望があった。それゆえ、これらのことによって、彼らはその受け継ぎを汚したのである。

彼らは主なる神の声に聞き従うのが遅かった。それゆえ、主なる彼らの神は、彼らの祈りを聴くのを遅くする、すなわち彼らの苦難の日に彼らにこたえるのを遅くするのである。

平穏な日には、彼らはわたしの勧告を軽んじた。しかし、苦難の日にはやむを得ずわたしを探し求める。

まことに、わたしはあなたがたに言う。彼らが罪を犯したにもかかわらず、わたしの心は、彼らに対する哀れみに満たされている。わたしは彼らをことごとく捨ててしまうことはせず、激しい怒りの日に憐れみを思い起こそう。』

(『教義と聖約』第101章2節〜9節)

ここにはアブラハムに、息子イサクをささげるように主が命じられたこともまた、アブラハムへの試みであったことが記されています。

試練と苦難を受ける必要がある

わたしたちは人生において様々な試練や苦難を経験します。

日々の生活の中で『自分だけがなぜこんな目に遭うのか』と考えてしまうことは誰にでもあると思います。

しかし、いっさい苦難を経験しない人はいません。

たとえば他人から見たとき、「あの人はとても恵まれていて、悩みなどないだろう」と思っていても、当の本人には他人にはわからない悩みや試練があるものです。

わたしたちは前世で天にいた時、父なる神から救いの計画を教えられました。

救いの計画とは、人の不死不滅と永遠の命をもたらすために定められたイエス・キリストの完全な福音です。

この計画によってすべての人が昇栄し、永遠に神とともに住むことができるようになりました。

そのためには、人は肉体において様々なことを経験し、神を頼り、物事を自身で選択する必要がありました。

わたしたちは人生に多くの試練があることを承知で、それでも自分たちが救い主の贖いによる祝福を受け、父なる神の御許に戻り、彼に近付くためにこの世に来たのです。

試練を受け、神を頼ってそれを乗り越える時、人は霊的な成長をすることができます。

『ところで見よ、アダムがもし背かなかったならば、彼は堕落せずにそのままエデンの園にいたであろう。そして創造されたすべてのものは、創造された後の状態そのままで存続したに違いない。また、すべてのものはとこしえに存続し、終わりがなかったに違いない。

そして、アダムとエバは子供を持たなかったであろう。また、不幸を知らないので喜びもなく、罪を知らないので善も行わず、罪のない状態にとどまっていたであろう。

しかし見よ、すべての物事は、万事を御存じである御方の知恵によって行われてきた。

アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである。』

(『ニーファイ第二書』第2章22節〜25節)

『その日、アダムは神をたたえ、満たされて、地のすべての氏族について預言し始めて言った。「神の御名がたたえられるように。わたしの背きのゆえに、わたしの目は開かれた。わたしはこの世で喜びを受け、再び肉体にあって神にまみえるであろう。」』

(『モーセ書』第5章10節)

自分の望んでいることとキリストが望んでおられることが一致するときに、わたしたちは真の意味でキリストの名により祈ることができます。

『わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。

人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。』

(『ヨハネによる福音書』第15章4節〜7節)

サタンは祈らないように教える

イエスは弟子たちに、常に祈るように勧告しました。

『見よ、まことに、まことに、あなたがた​に​言う。あなたがた​は​誘惑に​陥らない​よう​に、常に​目​を​覚まして​いて​祈らなければ​ならない。​サタン​は​あなたがた​を​小麦の​よう​に​ふるい​に​かける​こと​を​願って​いる​からで​ある。

だから​あなたがた​は、わたし​の​名に​よって​常に​父​に​祈らなければ​ならない。』

(『ニーファイ第三書』第18章18、19節)

なぜ『常に』祈ることが必要なのでしょうか。

新約聖書にはこのように書かれています。

『誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである』

(『マタイによる福音書』第26章41節)

わたしたちは自分自身が信仰に生きていると思っていても、心の思いに肉体がついて行かないことがままあります。

上に引用した聖句でも、彼らは激しい眠気に抗うことができませんでした。

さらに、わたしたちはいつもサタンの誘惑にさらされています。

『まことに、まことに、わたし​は​あなたがた​に​言う。あなたがた​は​悪魔に​誘惑​されない​よう​に、また​悪魔に​捕らえられない​よう​に、常に​目を​覚まして​いて​​祈らなくて​は​ならない。』

(『ニーファイ第三書』第18章15節)

祈りは神との対話です。

日々神の前にへりくだって祈りを重ねることで、さらに神の御心が少しずつ理解できるようにもなります。

それゆえ、人を神から遠ざけたいと望んでいるサタンは、人が神に祈らないようにと誘惑します。

『さて、わたしの愛する同胞よ、わたしはあなたがたがまだ心の中で深く考えているのを承知している。そして、このことについてあなたがたに述べなければならないのは、わたしにとって悲しいことである。あなたがたは、祈るように人に教えてくださる御霊に耳を傾けるならば、祈らなければならないことがわかるであろう。悪霊は祈るようにとは人に教えず、かえって祈ってはならないと人に教える。』

(『ニーファイ第二書』第32章8節)

さいごに

『祈り』という言葉は、聴く人によってはどこか掴みどころのない行為のように思われるかもしれません。

ですが、神の目に正しい思いと行いに対しては、様々な形での祝福をもって応えてくださいます。

自分自身のために祈ることもできますし、自分に敵対する者の幸いを願って神に祈ることもできます。

神の前にへりくだって心を注ぎだし、自身の思いや、苦難に対する答えを求めるとき、何らかの答えとして心に湧き上がる思いがあるでしょう。

祈りは正しく繰り返すことで神との距離が近くなります。

心を穏やかにし、ぜひ神に祈りをささげてください。

今回はここまでにしましょう。

聴いてくださってありがとうございました。

またお会いしましょう。

おやすみなさい。

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この記事を書いた人

はじめまして。プロフィールを見てくださってありがとうございます。
少し自己紹介をさせてください。
よもやま かいといいます。香川県出身です。
キリストを信じる信仰を持つクリスチャンで、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員です。
絵を描くことが好きで、筆記具を集めたりしてます。

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