導入
みなさんこんばんは、かいです!
聴いてくださっている皆さんに感謝します。
ありがとうございます。
これまでお話ししましたように、わたしはイエス・キリストを信じる信仰を持つクリスチャンのひとりです。
今回は、クリスチャンであるとはどういう意味なのか。また、どのようであるべきなのかについて少しお話ししたいと思います。
祈りのススメ
この記事内にはわたしたちが所属する末日聖徒イエス・キリスト教会の聖典である新約、旧約の聖書とモルモン書、教義と聖約、高価な真珠の中から聖句を引用しています。
また総大会と呼ばれる教会指導者たちの勧告などのお話からも引用する場合があります。
クリスチャンである方もそうでない方も、聖句を読むとき、以下のことに注意を払っていただけましたら幸いです。
『見よ、わたしはあなたがたに勧めたい。あなたがたにとってこの記録を読むことが、神の知恵にかなうようであれば、あなたがたはこれを読むときに、アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで、主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。
また、この記録を受ける時、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。
そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。』
(『モロナイ書』第10章3節〜5節)
クリスチャンとは?
新約聖書の中で、キリストの弟子たちが『クリスチャン』と呼ばれるようになったことが記されています。
『さて、ステパノのことで起こった迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。
ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシヤ人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。
そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった。
このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。
彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。
彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。
そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、
彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。』
(『使徒行伝』第11章19〜26節)
同じように、『モルモン書』にもキリストを信じる者たちがクリスチャンと呼ばれるようになったことについて記されています。
『それから、彼は自分のかぶとと胸当てと盾をしっかりと身に着け、よろいを腰にまとい、先端に裂いた衣を付けた竿を取って(彼はそれを自由の旗と呼んだ)、地にひれ伏し、そしてクリスチャンの一団が残ってその地を所有しているかぎり、自分の同胞に自由の祝福をとどめてくださるようにと、熱烈に神に祈った。
神の教会に属しているキリストのまことの信者は皆、教会に属していない者たちからクリスチャンと呼ばれていた。
教会に属している人々は忠実であった。キリストのまことの信者であった人々は皆、将来来られるキリストを信じていたので、呼ばれるままにキリストの名、すなわちクリスチャンという名を喜んで受けた。』
(『アルマ書』第46章13節〜15節)
アルマ書には、キリストを信じる者たちは、そうではない人々から嘲りの意味を込めてクリスチャンと呼ばれたことが書かれています。
弟子たちが自らそのように名乗ったわけではないのです。
主御自身は忠実な弟子たちのことを『聖徒』と呼んでおられます。
『神はその民をさばくために、上なる天および地に呼ばわれる、
「いけにえをもってわたしと契約を結んだわが聖徒をわたしのもとに集めよ」と。』
(『詩篇』第50篇4、5節)
『また、主なるわたしは初めに地をのろったように、終りの時には、ふさわしいときに地をわたしの聖徒たちが使うために祝福して、彼らが地の豊かなものにあずかれるようにした。』
(『教義と聖約』第61章17節)
キリストに近づく
わたしたちは、キリストに信仰を持つひとりの人として、イエスを模範として彼に従う人生を歩むことが求められています。
人間性と霊性を高め、彼のような人になる必要があります。
このことについて、ロバート・D・ヘイルズ長老のお話を引用します。
『…キリストの二人の弟子の経験について考えてみましょう。
「イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
現代のクリスチャンとしてわたしたちには、ペテロとアンデレのように、たじろぐことなく即座に、しかも果敢に行動する機会があります。「彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った」のです。わたしたちも自分の網、すなわち世俗的な習慣や慣習、因習を捨てるように求められています。また、自分の罪を捨て去るように求められています。「〔イエスは〕群衆を……呼び寄せて、彼らに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。』」 罪深い行動を自制することは悔い改めの第一歩です。悔い改めは心の中に大きな変化をもたらします。それは「悪を行う性癖をもう二度と持つこと〔が〕なく」なるような変化です。
改心と呼ばれるこの心の変化は、救い主を通してのみ可能です。イエスはこう約束されました。「もし人がわたしのもとに来るならば、わたしは彼らに各々の弱さを示そう。……わたしの前にへりくだるすべての者に対して、わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。」 わたしたちがキリストにあって心を新たにするとき、わたしたちの本質が変わり、もはやこれまでの習慣へ戻りたいとは思わなくなります。
そうであってもなお、忠実なクリスチャンは常に困難と失望に遭遇するという祝福を受けます。人を精錬するこうした困難に遭うと、わたしたちは以前の習慣に戻ろうとする誘惑に駆られることがあります。救い主は十字架におかかりになった後、女たちに姿を現し、ガリラヤへ行けば兄弟たちは主に会えるとおっしゃいました。先任使徒のペテロはガリラヤへ戻ると、以前に知っていた業、すなわち慣れ親しんだ業へ戻りました。「わたしは漁に行くのだ」と説明し、数人の弟子たちを連れて行きました。
ところが、ペテロたちは一晩中漁をしても、魚は一匹もとれませんでした。翌朝イエスが海岸に現れ、舟に乗っている弟子たちに大声で言われました。「舟の右の方に〔あなたがたの〕網をおろして見なさい。」舟に乗っていた弟子たちが主の指示に従うと、奇跡的に網にあふれるほどの魚が入っているのがすぐに分かりました。ヨハネはすぐに救い主の声だと分かり、ペテロは即座に海へ飛び込み、陸へ向かって泳ぎました。
今よりも忠実さに欠ける以前の習慣に戻ってしまったクリスチャンは、ペテロの忠実な模範について考えてください。ぐずぐずしてはいけません。主の呼び声を聞き分けてください。そしてすぐに主へ立ち返り、主の豊かな祝福を再び受けてください。
弟子たちが海岸へ戻ると、魚とパンのごちそうが待っていました。「さあ,朝の食事をしなさい」と救い主がお招きになりました。主は弟子たちに食物を与えると、ペテロに3度お尋ねになりました。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか。」ペテロが主を愛していると述べると、救い主はペテロに切々と言われました。「わたしの小羊を養いなさい。……わたしの羊を養いなさい。」
これは現代のクリスチャン一人一人に対するキリストの呼びかけです。「わたしの小羊を養いなさい。……わたしの羊を養いなさい。」すなわち、ほかの人々、特に自分とは異なる考えや信仰を持つ人々を、鼓舞し、喜ばせ、慰め、励まし、はぐくみながら、年齢を問わずあらゆる人に福音を分かち合うのです。家庭にあっては、福音を実践する生活によって主の子羊を養います。すなわち戒めを守り、祈り、聖文を研究し、主の愛の模範に倣う生活です。教会にあっては、神権定員会や補助組織で奉仕するときに、主の羊を養います。そして、キリストのような良い隣人になることにより、世界中で主の羊を養います。夫を亡くした女性、父親のない子供、貧しい人など、困っているあらゆる人への慰問や奉仕を通して示す、清く汚れのない信心を実践する隣人になるのです。』
(『クリスチャンとして、キリストのような特質を高める』ロバート・D・ヘイルズ 2012年10月総大会より一部抜粋)
愛から始まる奉仕と忍耐
主はわたしたちに、愛に関わる戒めをいくつも与えられました。
『神は愛である』という言葉もあるように、わたしたちもまた神が持っている愛を理解する必要があります。
『それゆえ、わたしは彼らに戒めを与えて、このように言う。あなたは心を尽くし、勢力と思いと力を尽くして、主なるあなたの神を愛さなければならない。また、イエス・キリストの名によって、神に仕えなければならない。』
(『教義と聖約』第59章5節)
『あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。』
(『レビ記』第19章18節)
『わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。』
(『ヨハネによる福音書』第13章34節)
『夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。』
(『エペソ人への手紙』第5章25節)
『愛』という言葉はどこかとらえどころが無く、人それぞれで愛に対する考え方は異なっているのではないでしょうか。
ですが、聖典には愛、もしくは神の持つ慈愛についてはっきりと記されています。
慈愛について聖文から引用します。
『慈愛は長く堪え忍び、親切であり、ねたまず、誇らず、自分の利益を求めず、容易に怒らず、悪事を少しも考えず、罪悪を喜ばないで真実を喜び、すべてを忍び、すべてを望み、すべてに耐える。
したがって、わたしの愛する同胞よ、もしあなたがたに慈愛がなければ、あなたがたは何の価値もない。慈愛はいつまでも絶えることがないからである。したがって、最も大いなるものである慈愛を固く守りなさい。すべてのものは必ず絶えてしまうからである。
しかし、この慈愛はキリストの純粋な愛であって、とこしえに続く。そして、終わりの日にこの慈愛を持っていると認められる人は、幸いである。』
(『モロナイ書』第7章45節〜47節)
『慈愛』とはキリストが持つ特性でもあります。
わたしたちクリスチャンは、キリストに似た者になれるよう、自分以外の者に仕え、奉仕することによって神にも仕えるのです。
『兄弟たちよ、あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互につかえなさい。』
(『ガラテヤ人への手紙』第5章13節)
『そして見よ、わたしがこれらのことを語るのは、あなたがたに知恵を得させるためである。すなわち、あなたがたが同胞のために務めるのは、とりもなおさず、あなたがたの神のために務めるのであるということを悟らせるためである。』
(『モーサヤ書』第2章17節)
さいごに
わたしたちは神を愛し、自分以外の人を愛し、自分を愛することを戒めとして与えられています。
ただ、言葉で『愛する』と言っても、現実にはそう簡単ではありません。
人には感情があり、頭で理解している正しいことよりも、その瞬間の感情が言動を決定してしまうこともあります。
自分に対して良い感情を抱いていない人を愛することは簡単ではありません。
誰でもそうです。
ですが、いつまでもそのままでいる訳にもいきません。
日々少しずつ、失敗と反省とを繰り返しながら進んでいくこともできます。
そうすれば、自分に敵意を抱いている人でさえも、赦せるようになる時がきます。
『わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。』
(『ヨハネの第一の手紙』第4章19節)
キリストを信じる信仰を持っている人々は、立場や生活している環境はそれぞれ異なっていますが、キリストに似た者となれるように日々努力を重ねている人たちです。
今回はここまでにしましょう。
聴いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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