福音ラジオ 第二十六回『アダム』

みなさんこんばんは、かいです!

クリスチャンでなくとも、聖書に登場する語や名称を見聞きしたことのある方は多いのではないかと思います。

たとえば『キリスト』なんかもそうです。

これはギリシャ語訳されたヘブライ語、アラム語の『メシヤ』という語ですが、意味は『油注がれた者』です。

ほかにもモーセ、方舟、エデンの園、黙示録、サタンなんかもそうです。

そういったなかで、今回は『アダム』についてお話しします。

今回も聖典、教会の出版物を参照します

また、わたしの個人的な考えや意見が記載されますが、これについては教会の公式な見解とは異なります。

目次

最初の人

聖書の『創世記』を見ると、神が天地とその万象を造られたのち、『神々のかたちにかたどって』人を造ったとあります。

そして、人に『海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせ』ることにしました。

『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。』

(『創世記』第1章26、27節)

以前すこし触れましたが、カソリックをはじめとするキリスト教における教義に『三位一体』があります。

ざっくり言うと神はひとり、だが三つの神格がある、というものです。

さきほど引用した創世記にも、神は『われわれのかたちに』とはっきり複数存在するように記述されていますが、ニカイア公会議などによって三位一体が正統であると定められました。

これについてお話ししますとかなり長くなりますので今回は省きます。

さて、第二十五回目のお話の中で、サタンによって聖書の中から神の教えの分かりやすくて貴い部分が奪われたということを申し上げましたが、創世記においてはそれが顕著です。

私たちの用いる聖典の一つである『高価な真珠』に収められている『モーセ書』から、上記の創世記と同じ部分を引用します。

『神であるわたしは、初めからわたしとともにいたわたしの独り子に言った。「わたしたちの形に、わたしたちにかたどって人を造ろう。」そして、そのようになった。また、神であるわたしは言った。「彼らに、海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべてのものと、地のすべての這うものを治めさせよう。」

神であるわたしは、自分の形に人を創造した。わたしの独り子の形に人を創造し、男と女とに創造した。』

(『モーセ書』第2章26、27節)

このモーセ書は、旧約聖書の創世記と基本的には同じものです。ただ、創世記には記されていない『いつ、だれがモーセに天地創造を教えたのか』が載っています。また、上に引用しましたように、聖書から取り去られた部分が残されています。

モーセ書は、神御自身がモーセに御姿を現され、顔と顔とをあわせて多くのことを語ったと記されています。

余談になりますが、モーセはこの時身を変えられ、神の臨在に耐えることができました。

ちなみにモーセは死んだと解釈している方がおそらく多いと思いますが、モーセは死を味わうことなく天に挙げられました。

旧約聖書に『主がモーセを葬られた』という記述がありますが、彼が『死んだ』とは書かれていません。

彼の他にも死ぬことなく主が取り上げられた預言者が存在します。

モーセは新約聖書の時代、エリヤとともにイエスの前に姿を現しました。

これは、この時変貌の山に同席していた使徒たちに神権の鍵を授けなければならなかったためです。

もしモーセやエリヤが死んでしまっていたなら、復活はイエスの後でなくてはなりません。

それでは神権の鍵を使徒たちに授けることができなくなってしまうためです。

イエスが十字架に上げられる前、つまり贖罪を完成させる前に教会を導く権能を使徒たちに授ける必要があったのです。イスラエルの集合と10部族を導く神権の鍵はモーセが持っていたためです。

『この示現が閉じた後、天が再びわたしたちに開かれた。そして、モーセがわたしたちの前に現れ、地の四方からのイスラエルの集合と北の地からの十部族の導きの鍵をわたしたちにゆだねた。』

(『教義と聖約』第110章11節)

霊的に創造された

創世記、モーセ書ともに記されている人の創造について、もうひとつややこしい記述があります。

それは、『人を神のかたちに男と女に創造した』という部分です。

最初に造られたのはアダムだけで、アダムからエバが造られたはずなのに、なぜここで『男と女』が造られているのか、という疑問です。

さらに、創世記を読むともうひとつ理解が難しい箇所があります。

『地は青草と、種類にしたがって種を持つ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。』

(『創世記』第1章12節)

『これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、

地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。』

(『創世記』第2章4、5節)

第1章で『地は青草と…木とをはえさせた』とあるのに、第2章の天地創造が終わった時、『地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。』と書かれています。

これを『青草と野の草は別物だ』と強弁することもできるかもしれませんが、まずは前述のモーセ書から見てみましょう。

『さて見よ、わたしはあなたに言う。これが天地創造の由来である。主なる神であるわたしが天と地を造ったとき、

地にはまだ野の植物もなく、また野の草も生えていなかった。主なる神であるわたしは、わたしが語ったすべてのものを、それらが地の面に自然に存在するに先立って霊的に創造した。主なる神であるわたしは、地の面にまだ雨を降らせていなかったからである。主なる神であるわたしは、人の子らをすべて創造していたが、まだ土を耕す人はいなかった。わたしは彼らを天で創造したのである。そして、地上にも、水の中にも、空にも、まだ肉なるものはいなかった。』

(『モーセ書』第3章4、5節)

主なる神は万物を物質的に創造される前、霊的に創造した事が記されています。

また、地上にアダムが置かれる前に、わたしたち人の子らも天ですべて創造されていたとあります。これを書いているわたしも、読んでくださっているあなたも、天地創造の以前に霊として父なる神に造られていました。

アダムが地上に置かれ、エバと結ばれ、子孫が繁栄するにしたがって天にいた霊であるわたしたちは、順次地上に来ることになりました。

わたしたちが前世、つまり天でいた頃の記憶を持たないのは、『忘却の幕』と呼ばれるものを通って地上に来るためです。

わたしたちは神の存在も知らないままでこの世で育ち、神が与えてくださった選択の自由を行使して成長します。

その中で自分の良心に従って神を求めることも、神を求めずに人を愛することも、また心の思いに従って人を欺き傷つけながら生きることも許されています。

ただ、神は人の子らが御自分の御元にふさわしい状態で帰ってくる事ができるように、救い主と聖霊を備え、人の子らが良いことを選べるよう、『キリストの光』をこの世に残されました。

また、わたしたちは最後の裁きの時に、地上での行いと思いに従って主から裁きを受けることになります。

『キリストの光』についてはまた機会を改めてお話しします。

アダムの創造

上で引用したモーセ書をよく読むと理解できますが、私たちは霊の状態で神によって造られ、そののちアダムが地上に初めて肉体を持って置かれました。

つまりアダムは『地上で創造された最初の人』ということです。

『主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。』

(『創世記』第2章7節)

『主なる神であるわたしは、土のちりで人を形造り、命の息をその鼻に吹き入れた。そこで人は生けるもの、地上における最初の肉なるもの、また最初の人となった。しかしながら、すべてのものは以前に創造されたが、それは、わたしの言葉に従って霊的に創造され、造られたのである。』

(『モーセ書』第3章7節)

ここで記されているようにアダムは『土のちり』から形造られたとありますが、土から造られたわけではありません。

わたしたちが持つ聖典の中にはっきりと記述されているわけではありませんが、わたしたち末日聖徒の多くは、アダムは『ちり=物質を作る元素』によって形造られたと理解しています。

エバの創造

アダムの地上における妻であるエバの名も、ご存知の方は多いと思います。

聖典によるとエバはアダムから造られたと書かれています。

『そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、そのところを肉でふさがれた。

主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。

そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう。」』

(『創世記』第2章21〜23節)

エバは地上に生を受けた最初の女性であり、アダムの妻でした。

この名前はヘブライ語で『命』を意味し、エバが地上で最初の母親であったことを示唆しています。

『さて、アダムはその妻をエバと呼んだ。彼女がすべての命あるものの母であったからである。主なる神であるわたしは、数多くいるすべての女の最初の者をこのように呼んだ。』

(『モーセ書』第4章26節)

神によって夫婦とされた

アダムとエバは神によって夫婦とされました。

日本においても夫婦の関係がここ数十年で大きく様変わりしました。

あくまでも夫婦は対等の立場であり、どちらかが優位に立つのは倫理的にもおかしい、ということです。

わたしたちの教会でも、この『夫婦』の関係というのはかなり難しい問題となる場合が多いようです。

クリスチャンである人であっても、聖典をそのまま解釈することで『妻は夫の助け手』であって、主体性は夫が持っているのではないか、などです。

夫婦の関係についてここで語るとかなり長くなりますので割愛しますが、アダムとエバは現代を生きる多くの夫婦が抱えるのと同様の試練に遭っていたようです。

有名なものに、息子のひとりであるカインが主に背き、弟アベルを殺害するという大きな罪を犯してしまったことが挙げられます。

『カインは憤って、もはや決して主の声にも、主の前を聖く歩んだ弟アベルの声にも耳を傾けなかった。

アダムとその妻は、カインとその兄弟たちのゆえに主の前に嘆き悲しんだ。』

(『モーセ書』第5章26、27節)

ひとつ余談ですが、カインはアダムとエバの長男ではありません。

アダムとエバはカインの前に多くの息子娘をもうけています。

カインが生まれる前にサタンがアダムの子孫たちを惑わすようになりましたが、そのような中で生まれたのがカインです。

エバはカインが『主の御言葉を拒まない人に成長すること』を期待しましたが、そうはなりませんでした。

話を戻しますが、いずれにせよアダムとエバはお互いを補い合い、支え合って主の前を聖く歩んだと思われます。

彼ら夫婦が互いを思いやり、最も苦しんで選択したのが『禁断の実』を食べるか否か、という試練です。

堕落

多くのクリスチャンの方々、またクリスチャンでない方であっても、アダムとエバの堕落について聞いたことがあるのではないかと思います。

最初に申し上げておきますと、わたしたち末日聖徒はアダムの堕落を『罪』と見做しません。

彼らの選択は神の戒めに対する背きではありましたが、そのおかげでわたしたち人類が生まれることとなったからです。

末日の啓示には、『堕落』がひとつの祝福であり、アダムとエバは全人類の始祖として尊ばれるべきであるということを明らかにしています。

『わたしたちは、人は自分の罪のゆえに罰せられ、アダムの背きのゆえには罰せられないことを信じる。』

((信仰箇条』第1章2節)

アダムとエバの堕落とは、人類がこの地上で死すべき状態となった過程をいいます。

つまりアダムもエバも、このときまで不死不滅の状態でした。

アダムとエバは禁断の実を食べて、死すべき状態、すなわち、罪と死に支配される者となりました。

『主なる神はその人に命じて言われた。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。』

((創世記』第2章16、17節)

『主なる神であるわたしは、その人に命じて言った。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。それでも、あなたは自分で選ぶことができる。それはあなたに任されているからである。しかし、わたしがそれを禁じたことを覚えておきなさい。あなたはそれを食べる日に、必ず死ぬからである。」』

(『モーセ書』第3章16、17節)

ちなみに、主がアダムにこの戒めを与えたのち、エバが造られました。

もちろんエバも禁断の実を食べてはならないと知っていました。

エバの重要性

サタンは当時地上にふたりしかいなかった人間を欺こうとしました。

聖典にはサタンがエバを言いくるめて禁断の実を食べさせたと記されています。

『さて、主なる神であるわたしが造った野の生き物のうちで、蛇が最も狡猾であった。

そこで、サタンは(すでに多くのものを引き寄せて自分に従わせていたので)蛇の心の中に思いを入れ、エバもだまそうとした。彼は神の思いを知らなかったので、世を滅ぼそうとしたのである。

彼は女に言った。「園のどの木からも取って食べてはならないと、ほんとうに神が言われたのですか。」(彼は蛇の口を通して語った。)

女は蛇に言った。「私たちは園の木の実は食べることを許されています。

しかし、園の中央に見える木の実については、取って食べてはならない、触れてもならない、死んではいけないから、と神は言われました。」

すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

それを食べる日に、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また、ともにいた夫にも与えたので、彼も食べた。』

(『モーセ書』第4章5節〜12節)

アダムは主なる神から禁断の実を食べないように戒められていました。

その実を食べたならば必ず死ぬ、と教えられていたのです。

そして、人はその父と母を離れて、妻と結び合い、二人は一体とならなければならないことも知っていました。

アダムには大きな戒めがふたつ与えられ、どちらかを選ぶ必要がありました。

禁断の実を食べない選択をしたなら、エバはいずれ死に、アダムはひとりになってしまいます。

ふとりめの妻を造ることはできません。

なぜなら、エバはアダムから造られ、もともとアダムが備えていたものをエバに分け与えたからです。

男性と女性の考え方が根本的に異なるのは、そのように造られているからです。

男女はお互いが補完し合うように造られているのです。

おそらく悩み抜いた末、アダムは妻と共にいることを選択しました。

そして自らの意思で禁断の実を食べたのです。

主から禁断の実を食べたことを責められたアダムはそれを伝えています。

『そこで、人は答えた。「あなたがわたしに与えてくださって、わたしとともにいるようにと命じられた女が、その木の実をくれたので、わたしは食べました。」』

(『モーセ書』第4章18節)

贖いの開始

善悪の判断ができるようになったアダムとエバは死すべき肉体となり、また世に罪が入ることとなりました。

これによって主(イエス・キリスト)の贖いの業が始まりました。

ふたりはエデンを追い出され、地を耕し、野のすべての獣を治め、額に汗してパンを食べるようになりました。

やがてひとりの天使がアダムに現れます。

『主は彼らに、主なる彼らの神を礼拝し、主へのささげ物として群れの初子をささげるようにと戒めを与えた。アダムは主の戒めに従順であった。

多くの日の後、主の天使がアダムに現れて言った。「あなたはなぜ主に犠牲をささげるのか。」そこで、アダムは彼に答えた。「わたしには分かりません。ただ、主がわたしに命じられたのです。」

すると、天使は語って言った。「これは、御父の、恵みと真理に満ちている独り子の犠牲のひながたである。

したがって、あなたが行うすべてのことを御子の御名によって行いなさい。また、悔い改めて、いつまでも御子の御名によって神に呼び求めなさい。」

その日、御父と御子のことを証する聖霊がアダムに降り、そして言った。「わたしは初めから、また今から後とこしえに、父の独り子である。あなたは堕落したので、贖いを受けることができる。全人類、まことにそれを望むすべての者も同様である。」

その日、アダムは神をたたえ、満たされて、地のすべての氏族について預言し始めて言った。「神の御名がたたえられるように。わたしの背きのゆえに、わたしの目は開かれた。わたしはこの世で喜びを受け、再び肉体にあって神にまみえるであろう。」

彼の妻エバは、これらすべてのことを聞き、喜びながら言った。「わたしたちの背きがなかったならば、私たちは決して子孫を持つことはなく、また善悪も、贖いの喜びも、神がすべての従順な者に与えてくださる永遠の命も、決して知ることはなかったでしょう。」

アダムとエバは神の名をたたえ、息子、娘たちにすべてのことを知らせた。』

(『モーセ書』第5章5節〜12節)

神はアダムが自由意志によって戒めに背くことを知っていたでしょう。

それによって人類が増え広がり、自ら善悪を選択し、悪を選んだときには悔い改めることで贖いの業によって罪を清められ、御自分の御許に戻って来るようになることを計画されたのです。

アダムは神の戒めに背きましたが、人類が生まれるためには必要なことでした。

このことは単純な二元論では語れません。

人の前世

わたしたち人類の前世については聖書にも記されていますが、有名なものを挙げますと『ヨブ記』があります。

『わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。

あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。

その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。

かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった。』

(『ヨブ記』第38章4〜7節)

『わたしが地の基をすえた時』とは天地創造において、主が地球を創造されたときを指しています。

この時、『明けの星』あるいは『神の子たち』はそれを見て喜んだとあります。

クリスチャンの方でしたらお分かりでしょうが、わたしたち人類は『神の子ら』と表現されます。

つまり、ヨブはもちろんのこと、わたしたちは主が天地創造を行うのをこの目で見ていたのです。

『主の言葉がわたしに臨んで言う、

「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。』

(『エレミヤ書』第1章4、5節)

『ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、

みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』

(『エペソ人への第一の手紙』第1章3〜5節)

この聖句は前述の『肉体に生まれる前に霊として創造されていた』ということを裏付けています。

日の老いたる者

わたしたちの復活についてふれている聖文がいくつかありますが、その一つを引用します。

『というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。

なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。』

(『コリント人への第一の手紙』第15章52、53節)

これと同じ内容の聖句が『教義と聖約』にも納められています。

『しかし見よ、まことに、わたしはあなたがたに言う。地が過ぎ去る前に、わたしの天使長ミカエルはラッパを吹き鳴らす。そのとき、墓が開かれるので、すべての死者は目を覚まし、彼ら、すなわちすべての者が出て来る。』

(『教義と聖約』第29章26節)

主の再臨に先立ち、最後まで正しい行いを選んだ人々が復活するとき、天使長であるミカエルが合図のラッパを吹き鳴らします。

聖書にもありますように、こののち主が来られると記されています。

『また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、

人々は世界に起ころうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。

そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。』

(『ルカによる福音書』第21章25〜27節)

『イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。』

(『マタイによる福音書』第28章64節)

聖典に記されている主の再臨の時の『雲』というものが、気象学的な雲と同じものであるとは思えませんが、いずれにせよ主は『雲に乗って』来られると表現されています。

これと同じ内容の預言が旧約聖書にあります。

『わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。』

(『ダニエル書』第7章13節)

旧約時代の預言者のひとりであるダニエルは、夜の幻、つまり夢で啓示を受けることがありました。

そのうちのひとつがこの預言です。

この中に『日の老いたる者』と呼ばれている存在が登場します。 

『わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。』

(『ダニエル書』第7章9節)

主が再臨の時に天の雲に乗って日の老いたる者、つまりミカエルのもとに来られます。

この『日の老いたる者』と表現されているのがアダムです。

彼はその呼び名のとおり、全人類にとって最長老だからです。

『また、すべての者の先祖、すべての者の君、日の老いたる者であるミカエル、すなわちアダムとともに、』

(『教義と聖約』第27章11節)

『アダムは死ぬ三年前に、すべて大祭司であったセツ、エノス、カイナン、マハラレル、ヤレド、エノク、およびメトセラを、義にかなった子孫の残りとともにアダム・オンダイ・アーマンの谷に呼び集め、そこで彼らに最後の祝福を授けた。

すると、主が彼らに現れた。彼らは立ち上がってアダムをほめたたえ、彼をミカエル、君、天使長と呼んだ。』

(『教義と聖約』第107章53、54節)

地上で最初の神権者

現代のわたしたちの教会に所属する、ふさわしい男性には『神権』が授けられます。

この神権はアダムに対して主から授けられました。

『この神権の位は、父親から息子へ継承されるように確認されたものであり、約束を与えられた、選ばれた血統の直系の子孫に正統に属するものである。

この位はアダムの時代に設けられ、次のように血統によって継承された。

すなわち、アダムからセツに継承された。セツは六十九歳のときにアダムによって聖任され、また彼(アダム)の死ぬ三年前に彼によって祝福を授けられ、その子孫は主の選民となり、世の終わりまで守られるという神の約束を父を通じて受けた。

彼(セツ)は完全な人であり、その姿は彼の父に生き写しであったので、彼はあらゆる点で父のようであり、年齢によってのみ父と見分けることができた。

エノスは百三十四歳四か月のときに、アダムの手によって聖任された。

カイナンが四十歳の年に、神は荒れ野で彼を訪れた。また、彼はシェドラマクの地に向かって旅をしていた途中でアダムに会った。彼は聖任を受けたとき、八十七歳であった。

マハラレルはアダムの手によって聖任されたとき、四百九十六歳と七日であった。アダムはまた彼を祝福した。

ヤレドはアダムの手の下で聖任されたとき、二百歳であった。アダムはまた彼を祝福した。

エノクはアダムの手の下で聖任されたとき、二十五歳であった。また、彼が六十五歳のときに、アダムは彼を祝福した。

そして、彼は主にまみえ、主とともに歩み、絶えず主の前にあった。三百六十五年、彼は神とともに歩み、身を変えられて天に移されたとき、四百三十歳であった。

メトセラはアダムの手の下で聖任されたとき、三十二歳であった。

ノアはメトセラの手の下で聖任されたとき、十歳であった。』

(『教義と聖約』第107章40節〜52節)

アダム・オンダイ・アーマン

上に書きました『アダム・オンダイ・アーマン』という地名は、アダムたちが生きていた時の呼び名ですが、この地がどこなのかは末日の啓示で明らかにされています。

『スプリングヒルは、主によってアダム・オンダイ・アーマンと名付けられる。それというのも、主が言われるには、そこはアダムがその民を訪れるために来る場所、すなわち預言者ダニエルによって述べられたように日の老いたる者が座する場所だからである。』

(『教義と聖約』第116章第1節)

この啓示が与えられた千八百三十八年当時の地名だと思われますが、アメリカ合衆国ミズーリ州デイビース郡ワイツフェリーの近くにスプリングヒルと呼ばれる地があるそうです。

ダニエルの預言にあるように、主の再臨の前にアダムがこの地に来ます。

彼は主によって聖任され、全人類の肉体における父祖となりました。

アダムは御父の計画である人の救いの鍵を託されたのです。

『また、あなたがたが備えられた冠を受け、多くの王国を治める者とされるためである。このように、アダム・オンダイ・アーマンの基を設けたシオンの聖者である主なる神は言う。

この神は、ミカエルをあなたがたの君に任じ、彼の足を定め、彼を高い所に置き、また日の初めもなく命の終わりもない聖者の勧告と支持の下における救いの鍵を彼に授けた。』

(『教義と聖約』第78章15、16節)

さいごに

地上に最初に置かれた人であるアダムは、前世において父なる神からあらかじめ選ばれた霊でした。

彼に与えられた『ミカエル』という名は『神の如き者は誰か』という意味をもちます。

天使たちの長として知られていますが、それはつまり前世における私たちの長であったという事です。

ですが、彼はそれ以上に重要な役割を天において果たしました。

そして、主が来られる前に彼もまた地上に戻ります。

『すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、

それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。』

(『テサロニケ人への第一の手紙』第4章16〜18節)

彼はわたしたちが想像もできないほどに偉大な者のひとりであり、彼に罪があるなどというのは大きな間違いです。

今回はここまでにしましょう。

聴いてくださってありがとうございました。

またお会いしましょう。

おやすみなさい。

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この記事を書いた人

はじめまして。プロフィールを見てくださってありがとうございます。
少し自己紹介をさせてください。
よもやま かいといいます。香川県出身です。
キリストを信じる信仰を持つクリスチャンで、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員です。
絵を描くことが好きで、筆記具を集めたりしてます。

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