福音ラジオ 第二十三回『先祖の救い』

目次

導入

みなさんこんばんは、かいです!

日本に住むわたしたちの多くは、信仰している宗教といえば仏教か神道ではないでしょうか。

亡くなった家族や友人を偲んで墓地に赴いたりするでしょうし、特に日本人でしたらお盆の時期に限らず御仏壇に手を合わせたりすることは、日常の中で自然なこととして受け入れていると思います。

今回のタイトルは『先祖の救い』としましたが、正確に表現するなら先祖に限らず『死者の救い』についてお話しします。

救いの計画

わたしたちクリスチャンはイエス・キリストを信じる信仰を持ち、救いを得るために日々生活をしています。

中でもわたしたち末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は信仰を持つことに加えて、神殿でのさまざまな儀式を行うことで、救いを受けられるように努めています。

救い

わたしたちが言う救いとは、『肉体の死と霊の死から救われること』をいいます。

人は皆、イエス・キリストの死と復活を通して、神の恵みにより肉体の死から救われます。

つまり、人は皆死んでも、各々がふさわしい時に不死不滅の肉体を持って復活するということです。

どれほどの善人であろうと、あるいは悪人であろうと復活を受けます。

ただ、復活の時期が異なります。全人類が同時期に復活を受けるのではありません。

では、『霊の死』とはなんでしょう。

霊の死

霊の死とは、神とその影響からの分離をいいます。

いまいちピンと来ないかも知れませんね。

現在霊の死を受けている者たちを例に挙げますと、サタンと呼ばれるルシフェルと彼に従うことを選んだ天の衆群の三分の一は、天から投げ落とされたときに霊の死を受けました。

『そして、アダムは悪魔に誘惑された。見よ、悪魔はアダムの前にいた。悪魔は、「わたしにあなたの誉れを与えてください」と言って、わたしに背いた。彼の求めた誉れはわたしの力である。また、彼は天の衆群の三分の一を、彼らの選択の自由によって私から背き去らせた。

そして、彼らは落とされて、悪魔とその使いになった。』

(『教義と聖約』第29章36、37節)

この霊の死は、アダムの堕落によって世にもたらされました。

『エノクは彼らに言った。「アダムが堕落したので、わたしたちは存在しています。そして、アダムの堕落によって死が生じ、わたしたちは不幸と災いを受ける者とされているのです。』

(『モーセ書』第6章48節)

つまり、霊の死は肉体の死よりも以前から存在していたことになります。

悪魔となった者たちが天に住んでいた頃、神に背いて霊の死を受けました。

そして地が造られ、すでに霊の死を受けていたサタンがアダムを惑わしたことでわたしたちも霊の死という概念を受ける者となったのです。

思いや言葉や行いが邪悪な人は、たとえこの世に生きていたとしても、霊的には死んでいます。

霊の死は肉体の死の後にも起こります。復活した人や、悪魔やその使いに対しても裁きは行われるからです。

福音の光と真理に故意に背くものは霊の死を受けます。

この霊の死を指して『第二の死』と呼ぶこともあります。

『さて見よ、わたしはあなたに言う。そのときに死がやってくる。第二の死、すなわち霊の死がやって来る。それは、肉体の死に関して罪のあるまま死ぬ者が霊の死をも受ける時である。まことにその人は、義にかかわることについて死ぬのである。』

(『アルマ書』第12章16節)

『まことに見よ、この死は復活をもたらし、第一の死、すなわちあの霊の死から全人類を贖う。全人類は、アダムが堕落したことによって主の御前から絶たれているので、現世の事柄に関しても、ともに死んだと考えられているからである。

しかし見よ、キリストの復活は人類、まことに全人類を贖って主の御前に連れ戻す。

そして、それは悔い改めの条件を果たし、悔い改める者は、切り倒されて火の中に投げ込まれることはないが、悔い改めない者は皆、切り倒されて火の中に投げ込まれる。そしてこれらの者には、再び霊の死、まことに第二の死が及ぶ。彼らは義に関わる事柄に関して再び絶たれるからである。

だから、あなたがたは悔い改めなさい、悔い改めなさい。さもなければ、あなたがたはこれらの事柄を知っていて行わないので、罪の宣告を受けることになり、またこの第二の死に落とされることになる。』

(『ヒラマン書』第14章16節〜19節)

ヒラマン書のここだけを読むと、『第一の死、すなわちあの霊の死』と書かれているので混乱するかも知れません。

少し注釈を入れますと、最初にある『この死』とは『復活をもたらし』と続くので肉体の死を指します。

そして『あの霊の死』は全人類を贖うとありますので、キリストの贖罪によって贖われる、アダムの背きによって全人類が背負うことになった霊の死という意味です。

そしてヒラマン書第14章の18節には『悔い改めない者…には、再び霊の死…が及ぶ』とあります。

ここで書かれる第二の死とは、人々が自らの意思で神に背くことで受ける霊の死を意味します。

アダムの背きによってこの世に死が生じましたが、第二の死はアダムの選びによってではなく、個人個人の選択によって受けるかも知れないということです。

『これらの者は、悪魔やその使いとともに火と硫黄の池の中に入る者であり、

また第二の死が何らかの力を持つ唯一の者であり、

まことに、主の激しい怒りによる苦しみを受けた後も、主の定められたときに贖われない唯一の者である。』

(『教義と聖約』第76章36節〜38節)

霊の死に打ち勝つ

イエス・キリストの贖罪を通して、また福音の原則と儀式に従うことにより、人は男女を問わず罪から清められ、霊の死に打ち勝つことができます。

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない。』

(『ヨハネの黙示録』第12章11節)

『この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。

また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。

海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、各々そのしわざに応じて、さばきを受けた。

それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。』

(『ヨハネの黙示録』第20章6節、12節〜14節)

死者のための救い

さて、これまで肉体の死と霊の死についてお話ししました。

わたしたちはキリストの福音に従い、儀式を受けることで聖霊によって結び固められ、救いに至ります。

それでは、福音を知らずに、あるいは受け入れずに亡くなった人たちはどうなるのでしょう。

例えば、キリストがこの世にくる前に生まれ、亡くなった人たちはどうでしょう。

アダムが生きていた頃、すでに福音はこの世にありました。

『彼らが神の声に聞き従おうとせず、またその独り子、すなわち、時の中間に来ると神が宣言した者、創世の前に備えられた者を信じようとしなかったからである。

このように、福音は最初から宣べ伝えられ、神の前から遣わされた聖なる天使たちによって、神自身の声によって、また聖霊の賜物によって告げ知らされた。』

(『モーセ書』第5章57、58節)

アダムは神の声を聞くことができた預言者でした。

彼の子孫たちはアダムから福音を伝えられ、従う者も、従わない者もいました。

また天使達の訪れを受ける者も、聖霊の声を聞くことで福音を告げられる者もいたようです。

ですが、世の人々の多くが神に背くようになり、ノアとその家族たち以外の人々は悪くなったと記録されています。

福音を受け入れなかった人々の救い

ノアの子供たちはもちろん福音を知っていましたが、時代が下ってアブラハムが生きていた頃には、アブラハムの親族たちは偶像崇拝を行なっていたようです。

『わたしの先祖は、彼らの義と主なる彼らの神が与えられた聖なる戒めから離れて、異教徒の神々を礼拝し、わたしの言葉を聴くのをまったく拒んだ。

彼らは悪を行うことをその心に留め、エルケナの神と、リブナの神と、マーマクラの神と、コラシの神と、エジプトの王パロの神にすっかり頼り切っていたからである。』

(『アブラハム書』第1章5、6節)

アブラハムの親族は『悪を行うことをその心に留め』とありますので、自らの意思で神が与えられた戒めから離れたと考えることができますが、そもそも神を知らずに生き、亡くなった人々もいたと思われます。

これは古代のみならず、現代においても同じ状態の人が多くいます。

彼らに対して救いはあるのでしょうか。

聖典には死者の救いについて記されている部分が複数あります。

『キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、 不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。

こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。

これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。』

(『ペテロの第一の手紙』第3章18節〜20節)

『見よ、これらは、律法なしに死んだ者である。

また、獄にとどめられた人々の霊であって、肉において人間として裁きを受けるために、御子が訪れて、福音を宣べ伝えられた者である。

また、これらは、肉においてはイエスの証を受け入れなかったが、のちにそれを受け入れた者である。』

(『教義と聖約』第76章72節〜74節)

末日の啓示には、人が生前イエスを受け入れなかったとしても、死後に受け入れることがあり得ると明らかにしています。

これは、わたしたちに近い先祖においても同じです。

幼児の救い

非常に個人的な情報で恐縮ですが、わたしにはこの世に生まれることなく亡くなったきょうだいがいます。

わたしと同じような境遇の人も多くいるのではないでしょうか。

わたしのきょうだいのような人は救われるのでしょうか。

おそらくクリスチャンの方で、この点について悩みをお持ちだという人もいらっしゃると思います。

末日に与えられた啓示にその答えが記されています。

『天がわたしたちに開かれ、わたしは神の日の栄えの王国とその栄光を見た。それが体のままであったか、体を離れてであったか、わたしには分からない。

わたしは、その王国を受け継ぐ者たちが入る門のたぐいない美しさを見た。それは回転している炎のようであった。

わたしはまた、輝く神の御座も見たが、そこには御父と御子が座しておられた。

わたしはその王国の美しい街路を見た。それは金を敷き詰めたかのようであった。

わたしは父祖アダムとアブラハム、またわたしの父と母、眠ってから久しい兄のアルビンを見た。

わたしは、兄がどのようにしてその王国で受け継ぎを得たのか不思議に思った。兄は主が再びイスラエルを集める業を始められる前にこの世を去り、罪の赦しのためのバプテスマを受けていなかったからである。

すると、主の声が次のようにわたしに聞こえた。「この福音を知らずに死んだ者で、もしとどまることを許されていたらそれを受け入れたであろう者は皆、神の日の栄えの王国を受け継ぐ者となる。

これから後、この福音を知らずに死ぬ者で、真心からそれを受け入れたであろう者も皆、その王国を受け継ぐ者となる。

主なるわたしは、すべての人をその行いに応じて、またその心の望みに応じて裁くからである。」

わたしはまた、責任を負う年齢に達する前に死ぬ子供たちが皆、天の日の栄えの王国に救われるのを見た。』

(『教義と聖約』第137章1節〜10節)

身代わりの儀式

この啓示を理解し、受け入れることでわたしたちの心の枷は解かれるのではないでしょうか。

わたしたちはすでにこの世を去った先祖たちにも救いを得させるため、世界中にある神殿において死者のための儀式を、彼らの身代わりとなって受けます。

わたしたちが現世で行った儀式を、亡くなった先祖たちが受け入れるかどうかは彼らの自由意志にまかされています。

ただ、儀式を受けるためには肉体が必要です。

霊の状態で生前の罪を悔い改めることはできても、罪を清めるために水に沈めるバプテスマは肉体がなければ受けることができません。

『イエスは答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。」』

(『ヨハネによる福音書』第3章5節)

肉体を持っているわたしたちは、すでに肉体から離れている彼らのために身代わりとなって奉仕するのです。

世界中で神殿の建設が急がれている理由のひとつがこれです。

わたしたちはひとりでも多くの先祖たちに救いを得させるため、彼らの身代わりとなって神殿での儀式に臨むのです。

さいごに

死者の救いはあります。

わたしたち生者と同じように、すでにこの世を去った人々にも救いを受ける機会はあるのです。

生前悪徳の限りを繰り返してこの世を去った人であろうとも、のちになって悔い改めないとは誰にも言えないのです。

神は生者のためだけの神ではなく、死者にとっても神なのです。

今回はここまでにしましょう。

聴いてくださってありがとうございました。

またお会いしましょう。

おやすみなさい。

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この記事を書いた人

はじめまして。プロフィールを見てくださってありがとうございます。
少し自己紹介をさせてください。
よもやま かいといいます。香川県出身です。
キリストを信じる信仰を持つクリスチャンで、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員です。
絵を描くことが好きで、筆記具を集めたりしてます。

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