福音ラジオ 第二十八回『聖餐』

目次

導入

みなさんこんばんは、かいです!

今回は第二十七回ですこし触れた聖餐についてお話しします。

聖餐という言葉もキリスト教の宗派によって呼び方が異なります。

わたしたちの教会では『聖餐』と呼んでいますので、この記事の中でそれに準じて聖餐と表現します。

聖餐とは

わたしたち末日聖徒にとって聖餐とは、キリストの贖いの犠牲を記念するパンと水にあずかる儀式を指します。

裂かれたパンは主の引き裂かれた肉を象徴し、水は人の罪を贖うために流された主の血を象徴しています。

『わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、

感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。』

(『コリント人への第一の手紙』第11章23節〜25節)

かつてはイエスの血の記念として葡萄酒が使用されていましたが、わたしたち末日聖徒は1830年8月に与えられた啓示から、葡萄酒を用いないようになりました。

これは、当時の聖徒たちが迫害を受け続けており、聖餐式に用いる葡萄酒を入手することが困難であったことが背景にあります。

『あなたがたの主、あなたがたの神、あなたがたの贖い主であるイエス・キリストの声を聴きなさい。その言葉は生きていて、力がある。

見よ、わたしはあなたがたに言う。聖餐を受けるとき、あなたがたがわたしの栄光にひたすら目を向けて、あなたがたのために葬られたわたしの体と、あなたがたの罪の赦しために流されたわたしの血を父に記念して、それを受けるならば、あなた方は何を食べ、何を飲んでも差し支えがない。』

(『教義と聖約』第27章1、2節)

ジョセフ・スミスは聖餐式で用いる葡萄酒を手に入れようとして出かけましたが、その途中で天の御使に会い、この啓示を受けました。

ちなみに、わたしたちの教会では前述のとおり聖餐式で葡萄酒の代わりに水を用いていますが、将来再び来られる主とともに葡萄酒を飲む日が来ることも啓示として受けています。

なぜ行うのか

まず大前提として聖餐を受ける人は教会に加わっています。

イエス・キリストを信じる信仰を持ち、悔い改めのために罪を清めるバプテスマを受けます。

さらに権能を持つ者による按手によって聖霊を受けるのですが、私たちはバプテスマを受けるときに神と聖約を交わします。

この聖約を更新するために聖餐を受けます。

『さて、アルマは、最初この地にやって来た人々の一人であるヘラムを連れて水の中に立ち、祈り願って言った。「おお、主よ、あなたの僕が聖い心でこの務めを果たせるように、僕にあなたの御霊を注いでください。」

そして彼がこの言葉を語ったとき、主の御霊が彼のうえにあった。そこで彼は言った。「ヘラム、わたしは全能の神から権能を授かっているので、あなたの肉体が死ぬまで全能の神に仕えるという聖約を交わした証拠として、あなたにバプテスマを施す。主の御霊があなたに注がれるように。また全能の神が、世の初めから備えてくださっているキリストの贖いによって、あなたに永遠の命を授けられるように。』

(『モーサヤ書』第18章12、13節)

『さらにまた、バプテスマの様式に関して教会に与えられた戒めは、次のとおりである。すなわち、神の前にへりくだって、バプテスマを受けたいと願い、打ち砕かれた心と悔いる霊をもって進み出て、自分のすべての罪を心から悔い改めたことと、最後までイエス・キリストに仕える決心をして進んでイエス・キリストの名を受けることを教会員の前に証明し、また自分の罪の赦しを得るようにキリストの御霊を受けたことをその行いによってまことに明らかにする人は皆、バプテスマによってキリストの教会に受け入れられる。』

(『教義と聖約』第20章37節)

『肉体が死ぬまで』とこの聖句にある『最後まで』とは同じ意味です。つまり、この世での生活の最後まで、常にへりくだって悔い改め、進んで神の戒めに従うということです。

罪の贖いの犠牲

犠牲を自分たちの罪の身代わりとして神にささげるという行為は、アダムの時代から行われていました。

『アダムとその妻エバは主の名を呼び、エデンの園の方向から彼らに語る主の声を聞いた。しかし、主を目にすることはなかった。彼らは主の前から締め出されていたからである。

主は彼らに、主なる彼らの神を礼拝し、主へのささげ物として群れの初子をささげるようにと戒めを与えた。アダムは主の戒めに従順であった。

多くの日の後、主の天使がアダムに現れて言った。「あなたはなぜ主に犠牲をささげるのか。」そこで、アダムは彼に答えた。「わたしにはわかりません。ただ、種がわたしに命じられたのです。」

すると、天使は語って言った。「これは、御父の、恵みと真理に満ちている独り子の犠牲のひながたである。

したがって、あなたが行うすべてのことを御子の御名によって行いなさい。また、悔い改めて、いつまでも御子の御名によって神に呼び求めなさい。」』

(『モーセ書』第5章4節〜8節)

旧約聖書の時代には、罪を犯した時にどのような動物を犠牲として神にささげるのか、厳格に定められていました。

また、この当時は主に犠牲をささげるための祭司一族が存在していました。

イスラエルの子孫のうち、レビという男性の子孫がそれです。

レビの一族はイスラエル王国が二つに分裂したときにも、それぞれの国に存在していたため、いずれの国でも犠牲の燔祭を行うことができました。

『あなたはわたしのために土の祭壇を築き、その上にあなたの燔祭、酬恩祭、羊、牛をささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨んで、あなたを祝福するであろう。』

(『出エジプト記』第20章24節)

『牛、羊の産む雄のういごは皆あなたの神、主に聖別しなければならない。牛のういごを用いてなんの仕事をもしてはならない。また、羊のういごの毛を切ってはならない。

あなたの神、主が選ばれる所で、主の前にあなたは家族と共に年ごとにそれを食べなければならない。

しかし、その獣がもし傷のあるもの、すなわち足なえまたは、めくらなど、すべて悪い傷のあるものである時は、あなたの神、主にそれを犠牲としてささげてはならない。』

(『申命記』第15章19節〜21節)

キリストの贖罪

新約聖書の時代になり、イエスが全人類の罪の犠牲としてささげられました。

これにより、動物を罪の贖いのための犠牲としてささげる事は終わりました。

『さて見よ、わたしも、これらのことが真実であることをあなたがたに証しよう。見よ、あなたがたに言う。将来キリストは、御自分の民の背きを御自身に負うために人の子らの中に来られ、世の罪を贖われる。わたしはこのことを知っている。主なる神がそう言われたからである。

贖罪が行われる事は必要である。というのは、永遠の神の偉大な計画によって贖罪が行わなければならず、そうでなければ、全人類が滅びるのは避けられないからである。まことに、すべての人はかたくなになっており、堕落し、迷った状態にあるので、贖罪によらなければ必ず滅びる。贖罪は必ず行わなければならない。

大いなる最後の犠牲が必要である。それは、人を犠牲にすることでも、獣や鳥類を犠牲にすることでもない。人の犠牲であってはならず、無限にして永遠の犠牲でなければならない。

さて、自分の血をささげてほかの人の罪を贖うことができる人など、だれ一人いない。さて、ある人が人を殺した場合、見よ、わたしたちの公正な法律は、その人の兄弟の命を奪おうとするだろうか。そのようなことはないと、わたしはあなたがたに言う。

そうではなく、法律は人を殺した当人の命を要求する。したがって、無限の贖罪でなくては世の罪を十分に贖うことはできない。

それゆえ、大いなる最後の犠牲が必要である。そのときに、血を流すことは終わるであろうし、また、やめなければならない。それで、モーセの律法が成就するのである。まことに、モーセの律法は一点一画に至るまでことごとく成就し、虚しくなるものは何一つない。

見よ、これが律法の目的そのものであり、すべての部分がこの大いなる最後の犠牲となるのが神の御子であるので、まことに、これは無限にして永遠の犠牲である。』

(『アルマ書』第34章8節〜14節)

イエスは復活したのち、約束の地(現在のアメリカ大陸)に住むイスラエルの子孫たちにも現れ、贖罪を成し遂げたことを伝えました。

『わたしは世の光であり命である。わたしはアルパでありオメガであり、はじめであり終わりである。

あなたがたは、もはや血を流すことをわたしへのささげ物としてはならない。あなたがたの犠牲と燔祭は取りやめなさい。わたしはこれから、あなたがたの犠牲と燔祭を受け入れないからである。

あなたがたは打ち砕かれた心と悔いる霊を、犠牲としてわたしにささげなさい。打ち砕かれた心と悔いる霊をもってわたしのもとに来る者に、わたしはレーマン人に授けたように、火と聖霊によってバプテスマを授けよう。レーマン人は改心したときにわたしを信じたので、火と聖霊によるバプテスマを受けた。しかし、彼らはそれを知らなかった。

見よ、わたしは、世に贖いをもたらし、世の人々を罪から救うために世に来た。

それゆえ、悔い改めて幼子のようにわたしのもとに来る者を、わたしはだれでも受け入れよう。神の王国はこのような者の国である。見よ、このような者のために、わたしは自分の命を捨て、再びそれを得た。それゆえ、地の果てに至る人々よ、悔い改め、わたしのもとに来て救われなさい。』

(『ニーファイ第三書』第9章18節〜22節)

イエスが贖罪を成し遂げたのち、『今後は打ち砕かれた心と悔いる霊をささげるように』と命じられました。

このことは旧約聖書にも預言されています、

『あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。

神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。』

(『詩篇』第51篇16、17節)

『いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。』

(『イザヤ書』第57章15節)

『打ち砕かれた心』を持つとは、謙遜であり、罪を悔い、柔和であること、すなわち神の御心をよく感じ取ることのできる状態をいいます。

聖典の中には『柔和』という言葉が多く出てきます。

『モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。』

(『民数記』第12章3節)

『柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。』

(『マタイによる福音書』第5章5節)

『わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。』

(『マタイによる福音書』第11章29節)

『かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、極めて尊いものである。』

(『ペテロの第一の手紙』第3章4節)

『柔和である』とは、神を畏れる、義にかなった、謙遜な、素直な、苦難に耐える、などの意味を持つ言葉です。

高慢にならず、福音の教えに喜んで従います。

聖典には、人は柔和であるべきであると何度も教えています。

言い方を変えると、それほど柔和になることが簡単ではないということでしょう。

最初の聖餐

有名な話だと思いますが、いわゆる『最後の晩餐』が聖餐式の始まりです。

このときにイエスは十二使徒たちに聖餐の儀式について説明されました。

『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。

また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。

これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。』

(『マタイによる福音書』第26章26節〜28節)

聖餐を執行する権能

イエスの十二使徒たちは神権を授かっていましたので、聖餐の儀式を執行することができました。

末日の啓示によって現代の教会員にも聖餐の儀式が教えられ、聖餐の祈りもまた伝えられました。

『祭司の義務は、説き、教え、説き明かし、勧め、バプテスマを施し、聖餐を執行することであり、

また各会員の家を訪れて、彼らが声に出して祈り、ひそかにも祈るように、また家庭におけるすべての義務を果たすように進めることである。』

(『教義と聖約』第20章46、47節)

『教会員は、主イエスの記念としてパンとぶどう酒を受けるために、しばしば集まることが必要である。

長老または祭司がこれを執行しなければならない。次のような方法で執行しなければならない。すなわち、彼は教会員とともにひざまずき、厳粛な祈りによって御父に呼び求めて、次のように言わなければならない。』

(『教義と聖約』第20章75、76節)

以前『神権』のお話をしたときに少し触れましたが、『長老』は大神権の職のひとつ、『祭司』は小神権の職のひとつです。

つまり聖餐の儀式は小神権を授かっている者でしたら執行することができます。

聖餐を差し止められる対象

聖餐は主の犠牲の記念ですので、ふさわしくないままの人が聖餐にあずかることを主御自身が禁じられました。

『さて見よ、わたしがあなたがたに与える戒めはこれである。すなわち、あなたがたは、わたしの肉と血を分け与えるとき、だれであってもふさわしくないままでわたしの肉と血にあずかることを、承知のうえで許してはならないということである。

ふさわしくないままでわたしの肉を食べ、血を飲む者は、そうすることで自分に罰の定めを招くからである。だから、ある人がわたしの肉を食べ、血を飲むのにふさわしくないと分かったならば、あなたがたはその人に禁じなさい。』

(『ニーファイ第三書』第18章28、29節)

『あなたがたは、ふさわしくないままでバプテスマを受けることのないようにしなさい。ふさわしくないままでキリストの聖餐を受けないようにしなさい。むしろあなたがたは、ふさわしい状態ですべてのことを行い、しかも、生ける神の御子イエス・キリストの名によって行うようにしなさい。このように行い、最後まで堪え忍ぶならば、あなたがたは決して追い出されることはないであろう。』

(『モルモン書』第9章29節)

『ふさわしくない』状態とは、何かしらの罪、あるいは背きを行い、悔い改めができていないことを指します。ただ、これについては個人個人で自分にどれくらい厳しくできるか、もしくはどれくらい甘くできるかによって異なると思います。

本来は罪を避け、神の戒めに沿って生活していることが求められますが、なかなかそうはいきません。

わたしたちは日々あらゆる誘惑に晒されます。

背きや罪を犯しても悔い改めることで罪は赦されますが、心から悔い改めることが困難な状態に陥ることもあります。

わたし個人としては数年前になりますが、ある安息日に聖餐をとらない会員を見かけたことがあります。

いやらしい言い方をすると、自分が罪を犯しているかどうかは、他の会員にはわからないことがほとんどです。

悔い改めも罪の告白を指導者にもせず、聖餐を受けていても他の人にはわかりません。ただ、主はそれを御存知ですので、そのような人がいたならば、聖文にあるように罰の定めを招くことになるでしょう。

『主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。』

(『コリント人への第一の手紙』第11章29節)

約束の地の民にも伝えられた

十二人のイエスの使徒たちには、イエスが十字架にかけられる前に、聖餐の儀式について伝えました。

紀元前約600年にエルサレムを出たイスラエルの一族の子孫たちにも、聖餐の儀式は伝えられています。イエスは復活したのち、約束の地(現在のアメリカ大陸)に住む民に姿を現し、彼らにも聖餐を定められました。

『さて、イエスは弟子たちに、幾らかのパンと葡萄酒を持って来るように命じられた。

そして、彼らがパンと葡萄酒を取りに行っている間に、イエスは群衆に、地に腰を下ろすよう命じられた。

そして、弟子たちがパンとぶどう酒を持って来ると、イエスはパンを取り、それを裂いて祝福された。それからイエスは、弟子たちに与えて、食べるように命じられた。

彼らが食べて満たされると、イエスは群衆にも与えるように命じられた。

そして、群衆が食べて満たされると、イエスは弟子たちに言われた。「見よ、あなたがたの中の一人を聖任しよう。わたしはその人に力を授け、彼がパンを裂いて祝福し、わたしの教会の人々、すなわち信じてわたしの名によってバプテスマを受けるすべての人に、それを与えることができるようにしよう。

またあなたがたは、わたしがしたように、すなわち、わたしがパンを裂いて祝福し、それをあなたがたに与えたように、いつもこれを行うように努めなさい。

あなたがたは、わたしがあなたがたに示したわたしの体を記念して、これを行いなさい。それは、あなたがたがいつもわたしを覚えているということを、父に示す証となるであろう。そして、あなたがたは、いつもわたしを覚えているならば、わたしの御霊を受けるであろう。」

さて、イエスはこれらの御言葉を語ると、、弟子たちに、器のぶどう酒を取って飲むように告げ、さらに群衆にも与えて飲ませるように命じられた。

そこで、弟子たちはそのようにして、飲んで満たされた。また、彼らは群衆にも与え、群集も飲んで満たされた。

弟子たちがこれをなし終えると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたはこれを行なったので、幸いである。これはわたしの戒めを守ることである。またこれは、わたしの命じたことをあなたがたが喜んで行うということを、父に証明するものである。

これをあなたがたは、悔い改めてわたしの名によってバプテスマを受ける人々のためにいつも行いなさい。あなたがたは、わたしがあなたがたのために流したわたしの血の記念として、それを行いなさい。そうすれば、あなたがたはいつもわたしを覚えているということを、父に証明することができる。そして、あなたがたは、いつもわたしを覚えているならば、わたしの御霊を受けるであろう。』

(『ニーファイ第三書』第18章1節〜11節)

さいごに

聖餐の儀式はイエスが私たちの罪のために贖いをしてくださった事を記念するものであり、さらに歴史を辿れば太古の人々にもひながたとして伝えられていました。

現在においてもキリストを信じる人々にとって非常に大切な儀式のひとつですし、聖餐を受ける人それぞれで心に感じるものは異なるでしょう。

ですが、戒めのひとつとして主が来られる時まで続けられる大切な儀式です。

今回はここまでにします。

またお会いしましょう。

おやすみなさい。

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この記事を書いた人

はじめまして。プロフィールを見てくださってありがとうございます。
少し自己紹介をさせてください。
よもやま かいといいます。香川県出身です。
キリストを信じる信仰を持つクリスチャンで、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員です。
絵を描くことが好きで、筆記具を集めたりしてます。

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