導入
みなさんこんばんは、かいです!
聴いてくださっている皆さんに感謝しています。
ありがとうございます。
今回は謙遜ということについてお話しします。
福音を理解するために謙遜であることは大切です。
聖典の中には謙遜、柔和といった言葉が実に多く記されています。
わたしたちは日々の生活の中でさまざまな事柄に縛られ、つい主の前に謙遜であることを忘れてしまいます。
謙遜であること、柔和であるとはどういったことなのか、聖典や教会の出版物を参照して学びたいと思います。
祈りのススメ
この記事内にはわたしたち末日聖徒イエス・キリスト教会の聖典である新約、旧約の聖書とモルモン書、教義と聖約、高価な真珠の中から聖句を引用しています。
また総大会と呼ばれる教会指導者たちの勧告などのお話からも引用する場合があります。
クリスチャンである方もそうでない方も、聖句を読むとき、以下のことに注意を払っていただけましたら幸いです。
『見よ、わたしはあなたがたに勧めたい。あなたがたにとってこの記録を読むことが、神の知恵にかなうようであれば、あなたがたはこれを読むときに、アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで、主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。
また、この記録を受ける時、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。
そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。』
(『モロナイ書』第10章3節〜5節)
謙遜とは
謙遜とは、柔和で、素直なこと。また、神に頼らなければならないことを理解し、神の御心に従いたいと望むことを言います。
では柔和とはどういった状態を言うのでしょうか。
民数記には預言者モーセが『非常に柔和であった』と記されています。
『モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。』
(『民数記』第12章3節)
また主御自身も『わたしは柔和で心のへりくだった者である』であると述べています。
『わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。』
(『マタイによる福音書』第11章29節)
柔和とは、神を畏れる、義にかなった、謙遜な、素直な、苦難に耐えるなどの意味を持つ言葉です。
預言者たちはいつの時代も、民に柔和であるように教えています。
『かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。』
(『ペテロの第一の手紙』第3章4節)
約束の地(現在のアメリカ大陸)に住んでいた民にも同様の教えが残されています。
『悔い改めと主イエス・キリストを信じる信仰についてこの民に宣べ伝えなさい。謙遜になるように、また柔和で心のへりくだった者になるように教えなさい。主イエス・キリストを信じる信仰をもって、悪魔のあらゆる誘惑に立ち向かうように教えなさい。
善い行いをするのに決して疲れず、柔和で心のへりくだったものになるようにこの民に教えなさい。このような者は、その霊に安息を得るであろう。』
(『アルマ書』第37章33、34節)
聖典の中で『柔和』と言う言葉の対極のように用いられる言葉があります。それは『生まれながらの人』です。
日常的に使用する言葉ではありませんので、いまいち意味が解らないと思います。
生まれながらの人
新約聖書に登場する『生まれながらの人』という言葉を引用します。
『いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵みを悟るためである。
この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。』
(『コリント人への第一の手紙』第2章11節〜14節)
もうひとつ、モルモン書の中から引用します。
『生まれながらの人は神の敵であり、アダムの堕落以来そうであって、今後もそうである。また人は、聖なる御霊の勧めに従い、主なるキリストの贖罪により、生まれながらの人を捨てて聖徒となり、子供のように従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者となり、子供が父に従うように、主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従わないかぎり、とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。』
(『モーサヤ書』第3章19節)
生まれながらの人とは、聖なる御霊の促しよりも、激情、情欲、欲望、肉欲に影響された選択をする人を言います。このような人は、物質的なことは理解できても、霊的なことは理解できません。
生まれながらの状態から抜け出すには、イエス・キリストの贖罪を通して、再び生れなければなりません。
では『再び生まれる』とは何でしょうか。
これについて旧約聖書にも記載があります。
『そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。
これは彼らがわたしの定めに歩み、わたしのおきてを守って行い、そして彼らがわたしの民となり、わたしが彼らの神となるためである。
しかしいとうべきもの、憎むべきものをその心に慕って歩む者には、彼らの行いに従ってそのこうべに報いると、主なる神は言われる。』
(『エゼキエル書』第11章19節〜21節)
ここで、『新しい霊を授け』と書かれている部分が『再び生まれる』を意味しています。
つまり、主の御霊によって心の中に大きな変化が起こり、二度と悪を行おうとは思わず、それよりも神に関わる事柄を求めたいと望むようになることを言います。
『しかし、彼を受けいれたもの、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。』
(『ヨハネによる福音書』第1章12、13節)
新約聖書の中に、ニコデモの質問に対してイエスがこのことについて教えているシーンがあります。
『イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年をとってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」。
イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。誰でも、水と霊とから生れなければ、神の国に入ることはできない。
肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるものは霊である。
あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者も皆、それと同じである」。』
(『ヨハネによる福音書』第3章3節〜8節)
水と霊から生まれるとはイエス・キリストを信じる信仰を持って水に沈めるバプテスマを受け、按手によって聖霊を受けることです。
最後の一節は、この儀式を受け入れて行うことで神の国に入れるようになるが、それが何故なのかはあなたがたは知らない、つまり人は風がどこから吹いてきてどこへ行くのかを知らないように、神はそれを知っており、神が定めたことであると教えています。
新しく生まれるとは、悔い改めが必要であることを示す聖句があります。
『彼はこのように述べた。「わたしは自分の罪を悔い改め、主に贖われました。まことに、わたしは御霊によって生まれました。
主はわたしに言われました。「全人類、すなわち男女を問わず、すべての国民、部族、国語の民、民族が再び生れなければならないことを不思議に思ってはならない。まことに、人は神から生まれ、肉欲にふける堕落した状態から義の状態に変わって、神に贖われ、神の息子や娘にならなくてはならない。
このようにして、彼らは新たな者となる。このようにならないかぎり、決して神の王国を受け継ぐことはできない。」
わたしは皆様に申し上げます。人は実際にこのような状態にならないかぎり、必ず捨てられます。わたしは一度捨てられそうになったので、このことが分かります。
にもかかわらず、多くの艱難を耐え抜いて、死ぬほどの悔い改めをしたところ、主はわたしを哀れんで、永遠に燃える火からわたしを救い出すことがふさわしいとされました。そして、わたしは今、神から生まれたのです。」』
(『モーサヤ書』第27章24節〜28節)
ここで語っているのは紀元前約100年前後に、約束の地に住んでいた当時の教会の指導者の息子たちの一人でアルマという人物です。
彼の名は父の名を取って付けられ、彼の父もまたアルマと言いました。
息子アルマは良くない仲間たちと連れ立って偶像を礼拝し、主の教会を滅ぼそうと民の中で懸命に働きかける邪悪な人物でしたが、主の天使の現れを受けて物が言えなくなり、さらに体の力も弱くなって動くこともできなくなりました。
これを知った父アルマが祭司たちとともに二日二晩断食して祈り、結果息子アルマは力を取り戻して立ち上がりました。
上に引用したのはその時に彼が語った言葉の一部です。
ニコデモに対してイエスが教えたように、再び生まれなくては神の国を見ることはできません。さらに主の戒めを守ることで、来るべき世で不死不滅の栄光を受けることができます。
『背きによって堕落が生じ、その堕落が死をもたらす。あなたがたは水と血と、わたしが造った霊とによってこの世に生まれ、ちりから生けるものとなったので、まことにあなたがたは、水と御霊によって再び天の王国に生まれ、血によって、すなわちわたしの独り子の血によって清くされなければならない。それは、あなたがたがすべての罪から聖められ、この世において永遠の命の言葉を享受し、来るべき世において永遠の命、すなわち不死不滅の栄光を享受するためである。
それは、あなたがたが水によって戒めを守り、御霊によって義とされ、血によって聖められるからである。』
(『モーセ書』第6章59、60節)
主は人を謙遜にするため、苦難に合わせられる
わたしたちは自らの意思で神の前に謙遜になることを求められますが、時に主は、わたしたちを謙遜にするため、わたしたちにふさわしい試練をお与えになることがあります。
『もし人がわたしのもとに来るならば、わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために、人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべてのものに対して、わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。
見よ、わたしは異邦人に彼らの弱さを示し、また信仰と希望と慈愛が彼らをわたしのもとに、すなわち、あらゆる義の源に導くことを彼らに示そう。』
(『エテル書』第12章27、28節)
『さて、アルマがオナイダの丘で人々に教え、語っていたときに、今述べた人々、すなわちこの世のものに関して貧しいために心が謙遜になっている人々が、大きな群れをなしてアルマのもとにやって来た。
そして、彼らはアルマのもとにやって来ると、その群衆の中心になっている一人の人がアルマに言った。「まことに、ここにいるわたしの仲間は、どうすればよいのでしょうか。この人々は、貧乏であるためにすべての人から見下されています。とりわけ祭司たちに嫌われています。祭司たちは、私たちが自分の手を使って大いに働いて建てた会堂から、私たちを追い出しました。わたしたちがひどく貧乏だからということで、わたしたちを追い出したのです。私たちには神を礼拝する場所がどこにもありません。どうすればよいでしょうか。」
アルマはこれを聞くと、振り返って彼の方に面と向かい、非常に喜びながらじっと彼を見詰めた。彼らが多くの苦しみを受けて心がへりくだっており、御言葉を聞く用意のできていることが、アルマに分かったからである。
そこでアルマは、もう他の群衆にそれ以上語るのをやめ、しかし、目の前にいる、心から悔い改めている彼らに向かって手を伸ばして大声で言った。
「わたしの見るところ、今あなたがたの心はへりくだっている。もしそうならば、あなたがたは幸いである。
見よ、あなたがたの仲間の一人は、『どうすればよいでしょうか。わたしたちは会堂から追い出され、自分たちの神を礼拝できません』と言った。
見よ、あなたがたに尋ねたい。あなたがたは自分たちの会堂でしか神を礼拝することができないと思っているのか。
あなたがたに言う。会堂から追い出されていることは、あなたがたが謙遜になれるので、また知恵を得られるのでよいことである。あなたがたが知恵を得ることは必要だからである。あなたがたが今へりくだった心でいるのは、追い出されているためであり、また非常に貧しいために同胞から見下されているためである。あなたがたは、やむを得ずへりくだっている。
さて、やむを得ずへりくだっているので、あなたがたは幸いである。人は時々、やむを得ずへりくだっていても悔い改めようとするからである。そして、悔い改める人はだれでも、必ず憐れみを受ける。そして、憐れみを受けて最後まで耐え忍ぶ人は救われる。
わたしは、あなたがたがやむを得ずへりくだっているので幸いであると言ったが、御言葉のために自ら進んで心からへりくだる人々は、なおさら幸いであると思わないか。
まことに、自ら進んで心からへりくだり、罪を悔い改め、最後まで耐え忍ぶ人は祝福を受ける。まことにこのような人は、非常に貧しいために止むを得ずへりくだっている人々よりも、なおさら祝福を受ける。』
(『アルマ書』第32章4節〜15節)
心が貧しいということ
上に引用した聖文にも出てきますが、『貧しい』という言葉には物質的な貧しさのほか、心が謙遜になっている状態を指す場合があります。
そして、主は心が貧しいために謙遜になっている人々を祝福されます。
『こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。』
(『マタイによる福音書』第5章3節)
『また、貧しい者と柔和な者に福音が述べ伝えられ、彼らはわたしの来臨の時を待ち望むであろう。それはもう近いからである。』
(『教義と聖約』第35章15節)
打ち砕かれた心
打ち砕かれた心を持つとは、謙遜であり、罪を悔い、柔和であること、すなわち神の御心をよく感じ取ることのできる状態をいいます。
イエスが復活したのち、今後は犠牲として動物をささげるのではなく、人々に打ち砕かれた心と悔いる霊をささげるように命じられました。
『あなたがたは、もはや血を流すことをわたしへのささげ物としてはならない。あなたがたの犠牲と燔祭は取りやめなさい。わたしはこれから、あなたがたの犠牲と燔祭を受け入れないからである。
あなたがたは打ち砕かれた心と悔いる霊を、犠牲としてわたしにささげなさい。打ち砕かれた心と悔いる霊をもってわたしのもとに来る者に、わたしはレーマン人に授けたように、火と聖霊によってバプテスマを授けよう。レーマン人は改心したときにわたしを信じたので、火と聖霊によるバプテスマを受けた。しかし、彼らはそれを知らなかった。』
(『ニーファイ第三書』第9章19、20節)
主が御自身をささげられたのは、打ち砕かれた心と悔いる霊を持つすべての人の罪に対する犠牲としてでした。
『見よ、メシヤは律法の目的を達するため、打ち砕かれた心と悔いる霊を持つすべての人々のために、罪に対する犠牲として御自身をささげられる。このような人のためにしか、律法の目的は達せられないのである。
したがって、これらのことを地に住む者に知らせて、聖なるメシヤの功徳と憐れみと恵みによらなければ、だれも神の御前に住める者がいないことに気づかせるのは、何と大切なことであろうか。聖なるメシヤは、肉において御自分の命を一度捨て、そして、死者の復活をもたらすために御霊の力によって再びそれを得て、最初によみがえる者となられる。』
(『ニーファイ第二書』第2章7、8節)
悔い改めが伴う
ここまでお話ししてきましたように、わたしたちは神の御前に謙遜であるために、心からの悔い改めを行う必要があります。
悔い改めとは、神と自分自身また生活全般に対して新たな姿勢をもたらす思いと心の変化をいいます。
また、神の戒めと望みに従い、罪を捨てて、邪悪なことから遠ざかり、自分の心と思いを神に向けるという意味をも含んでいます。
真の悔い改めは、神への愛と、神の戒めに従いたいという心からの望みの結果として生じるものです。自分の行いに責任の取れる人は誰でも罪を犯します。したがって、救いに向かって成長していくには悔い改めなければなりません。
悔い改めはイエス・キリストの贖罪によってのみ有効なものとなり、神に受け入れられます。
神は人々が罪のままに死ぬことを望んでなどおられず、悔い改めて御自分の元に戻って来ることを望んでおられます。
『主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。
しかし義人がもしその義を離れて悪を行い、悪人のなすもろもろの憎むべきことを行うならば、生きるであろうか。彼が行ったもろもろの正しい事は覚えられない。彼はその犯したとがと、その犯した罪とのために死ぬ。
しかしあなたがたは、「主の行いは正しくない」と言う。イスラエルの家よ、聞け。わたしの行いは正しくないのか。正しくないのは、あなたがたのおこないではないか。
義人がその義を離れて悪を行い、そのために死ぬならば、彼は自分の行った悪のために死ぬのである。
しかし悪人がその行った悪を離れて、公道と正義とを行うならば、彼は自分の命を救うことができる。
彼は省みて、その犯したすべてのとがを離れたのだから必ず生きる。死ぬことはない。
しかしイスラエルの家は「主のおこないは正しくない」と言う。イスラエルの家よ、わたしのおこないは、はたして正しくないのか。正しくないのは、あなたがたのおこないではないか。
それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。
あなたがたがわたしに対して行ったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
わたしは何人との詩をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ。』
(『エゼキエル書』第18章23節〜32節)
ひとりひとりが悔い改めを行うことは必要です。それはわたしたち生者のみならず、すでに亡くなった死者たちも同様です。
『わたしは、この神権時代の忠実な長老たちが、死すべき世を去っても彼らの働きを続け、死者の霊たちの大いなる世界において暗闇と罪の束縛の下にいる者たちの間で、悔い改めと神の独り子の犠牲による贖いの福音を宣べ伝えているのを見た。
悔い改める死者は、神の宮の儀式に従うことによって贖われるであろう。
彼らは自分の背きの代価を支払い、洗われて清くなった後、その行いに応じて報いを受けるであろう。彼らは救いを受け継ぐ者だからである。』
(『教義と聖約』第138章57節〜59節)
悔い改めをおこない、心が柔和であれば人は聖霊からの影響を受けやすくなります。
わたしたちの教会でバプテスマを行なった後、権能のある者が按手を行うことで聖霊を授けます。
これは、バプテスマを受けることでその人の罪が清められ、清い状態でなければ聖霊がその人に降られないためです。
『また、だれでもあなたが手を置く者がわたしの前に悔いる状態であれば、あなたはその人に聖なる御霊を授ける力を持つであろう。』
(『教義と聖約』第55章3節)
高慢
謙遜の対極にある状態が高慢です。
謙遜さや素直さを欠いた状態であり、人は高慢になると互いに反目し、神に対しても敵対的になります。高慢な人は自分を人よりも優れていると考え、神の御心よりも自分の意思に従おうとします。
自惚れ、妬み、冷酷さ、傲慢さは、高慢な人によく見られる特徴です。
自分が周囲の人よりも優れていると考え、尊大な態度をとる人は多くいます。
自分の方が頭が良い、自分の方が金銭的に裕福である、自分の方が外見がよく異性にモテるなど、自分の方が誰かよりも優れている、と信じ込むことは突飛な考えではなく、誰にでも起こり得るサタンの罠です。
たとえそれが事実であったとしても、なおのこと高慢にならないように注意することが大切です。
さらに言うと、わたしたちクリスチャンであっても高慢な人は時々見かけます。
無論多くのクリスチャンはそのようなことはないでしょうが、高慢な彼らは主を信じている、と告白しながら実際には神を自分の都合の良い存在として見ているだけです。
わたしの知人の周囲にも似たような人はいます。
彼らは聖典を誰よりもよく読み、神の言葉に通じており、預言の解釈ができている、と信じ込んでいます。
そしてそれを基として他の教会員にマウントを仕掛けるのです。
このような態度をとっている時点でどうかと思いますが、彼らは自分を至って正しい教会員だと考えているようです。
そして自分以外の会員は全くなっていない、もっと努力するべきだとお説教するのです。
例えば聖典を研究することはわたしたち教会員に推奨されています。
毎日聖典に触れることはわたし自身の経験上、非常に大切だと感じますし、預言者たちも聖典をよく祈って研究するように勧めています。
ですが、聖典研究によって得られた神の知識や聖霊からの知恵は、他人に自慢したり他の人を見下すためのソースではありません。
また、聖典の理解度合いや戒めをどのくらい遵守しているかといったものは人それぞれです。教会員全員が同レベルでいるわけがありません。
例えば改宗して半年の方と、数十年経つ方では聖典の知識の量や深さが異なっていて当たり前です。
大切なのはその人のペースで成長を続ける事です。
わたしたちは互いに説き教え合うように命じられています。
聖霊によって語るならば、聞くものも聖霊によって理解できます。
そうしてお互いが霊的に成長していくのです。
高慢はいつでもわたしたちの身近にあります。
些細なことからでも、人は高慢に陥れるのです。
神に背いた暁の子ルシフェルも、自身の高慢のゆえに天から落とされました。
『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。
あなたはさきに心のうちに言った、「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、
雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう」。
しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』
(『イザヤ書』第14章12節〜15節)
古代から現代に至るまで、主は預言者たちの口を通して高慢に気をつけるよう、民に教えてきました。
『さて見よ、わたしの同胞よ、わたしがあなたがたに告げ知らせる言葉は次のとおりである。あなたがたと子孫のための約束の地であるこの地に非常に豊富にある金や銀、そのほかあらゆる貴重なあらがねを、あなたがたの多くは探し求めるようになってきた。
このようにしてあなたがたは、神の御心の御手があなたがたにほほえんで、たくさんの富を手に入れた。ところがある者たちは、ほかの者より豊かに富を得たことで心が高慢になり、また自分の衣服が高価なことで強情になって高ぶり、さらに、自分はほかのものよりも優れていると思って同胞を苦しめている。
さて、わたしの同胞よ、あなたがたはこのようなことを行なっていて、神から義とされると思うか。見よ、わたしはあなたがたに言う。そうではない。帰って神はあなたがたを罪に定められる。このようなことを続けるならば、神の裁きが速やかに下るに違いない。』
(『ヤコブ書』第2章12節〜14節)
主は高ぶりとおごりを憎む
主が高ぶる者や高慢な者を祝福した、と言う記述は聖典のどこにもありません。
人が高慢な思いを持つことはサタンの罠であり、その思いを改めないならば結果として本人に災いを招くことになるためです。
また人が罪のあるままで天の王国に入ることもできません。
ただ、人が一時的に高慢になってしまうことは多々あります。
ですがその思いを持ち続けるのではなく、どこかのタイミングで悔い改めを行うべきです。
現代でも高慢になっている人は自分では気付けず、逆に周囲から軽く見られたり、まともに相手にされなくなったりします。
本人はそれで満足なのですが、裸の王様のようなものです。
『同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。また、みな互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。
だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くしてくださるであろう。』
(『ペテロの第一の手紙』第5章5、6節)
上に引用した聖句にもありますが、預言者は『高慢であるなら自らを低くするように』と戒めています。
高慢でいつづける事は神に対する背きであり、また罪を生み出しますが、本人が気付くことで高慢な態度や考えを改める機会になります。
聖典を読むかぎり、現代でも古代でも人は同じような悩みを持ってサタンの誘惑を受けていたと解ります。
『主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、
反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、
一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっても、目覚めて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。』
(『テモテへの第二の手紙』第2章24節〜26節)
高慢になっている人にそれを注意するのは気が引けます。どのような言葉を掛ければ良いのか、自分が掛けた言葉でさらに争いにならないか、うまく自分の想いを言葉にできるだろうか、など考えだすと切りがありません。
わたしたち教会員にも同じような機会が訪れることはあります。
何らかのことを議論する必要がある場合は、事前によく祈り、お互い正しい判断ができるように助けを求めます。
一度の話し合いで解決しないこともしばしばですが、議論を重ねていくうちにうまく解決することも事実です。
そういった時、議論する前に「こういった形に落ち着くだろうな」と自分が考えていたこととは全く異なった形で解決することが殆どです。
それは、わたし個人の考えと主の思いとが異なっており、主の想いこそがわたしたち双方の成長につながることをご存知だからです。聖霊は個人の思いではなく、神の目に正しい方法と結果を与えてくれます。
それが最も良い結果をつくり出すためです。
さいごに
霊的に謙遜であるということは、わたしたちが日常的に使用するときの謙遜という言葉の意味とは若干ニュアンスが異なります。
例えば自分以外の誰かに『謙遜な人だ』と思わせたいならば、そのような態度を作って見せることはできます。
ですが、主から見たときの謙遜さはそういったものではありません。
自分の弱さや不完全さを認め、神に頼らなければならないことを理解することが大切です。
日々の生活の中で常に謙遜さを保つことは難しい場合もありますが、自分の態度や言葉が神の目に正しくないと思ったときはできるだけ速やかに改めるようにしたいですね。
今回はここまでにしましょう。
聴いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
コメント