導入
みなさんこんばんは、かいです。
聞いてくれている皆さんの時間を今、分けてくださっていることに心から感謝しています。
ありがとうございます。
前回は回復された福音において、あらゆる儀式を執行するためには権能、すなわち神権を授かった人物によって行われる必要があることをお話ししました。
神権は神が人の救いのためにあらゆることを行うよう授けられた権能と力だからです。
回復された主の教会において、第一の長老であるジョセフ・スミスは1829年5月15日に、教会の第二の長老となるオリバー・カウドリとともにアロン神権を授けられ、正式な方法でバプテスマを受けました。
主の教会を回復させるためには、まずバプテスマを受ける必要があり、新しく教会への加入を希望する人々にもバプテスマを執行する必要があったからです。
メルキゼデク神権
私たちの教会には『宣教師』がいます。
宣教師は福音を述べ伝えるため、男性の場合は18歳から、女性の場合は19歳から働くことが許されており、世界中から召されます。
ウィルスパンデミックが世界を席巻している現在、宣教師たちは自国において様々な人たちに福音を伝えるために働いていますが、以前は自国を出て外国で宣教活動をする人が多くいました。
日本でも、アメリカ合衆国をはじめとして、様々な国の若者たちが宣教師として主の業を進めるために働いていました。
『教義と聖約』第133章8節を引用します。
『わたしの教会の長老たちを、遠くにいるもろもろの国民に、海の島々に遣わしなさい。
諸外国に遣わしなさい。
まず異邦人へ、次いでユダヤ人へと、すべての国民に呼びかけなさい。』
男性の宣教師は例外なく大神権を授かっており、わたしたち教会員は彼らを『〇〇長老』と呼びます。
日本人からすると、長老という名称はある程度老齢に達した人物を指すように思いがちですが、教会内での『長老』とは、大神権の職を指します。
職とは、教会の組織の中の権能や責任を伴う地位のことです。
ちなみに旧約聖書では、通常政治的な務めを託された部族内の高齢者を指すことが多いです。
その他の聖典の中では神権の権能を伴う地位を意味する言葉としてしばしば用いられます。
聖書から『ヤコブの手紙』第5章14節、15節を引用します。
『あなたがたの中に、病んでいる者があるか。
その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。
信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ち上がらせて下さる。
かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。』
メルキゼデク神権には、長老、大祭司、祝福師、七十人、使徒の職があります。
現在、メルキゼデク神権者を指す言葉として長老という言葉が用いられますが、男性宣教師や十二使徒定員会、七十人定員会の会員について話す時は長老と呼ぶのがふさわしいとされています。
第五回でお話を引用したデビッド・A・べドナー長老も十二使徒定員会の会員で使徒の職にあります。
ちなみにアロン神権の職は執事、教師、祭司、ビショップがあります。
さて、教会の第一の長老であるジョセフ・スミスは、1829年にオリバー・カウドリと共にペンシルベニア州ハーモニーとニューヨーク州コールズビルの間を流れるサスケハナ川の近くで、昔の使徒であるペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人からメルキゼデク神権を授けられました。
この正確な日時は不明ですが、ふたりがアロン神権を受けた数週間後から数ヶ月後であるといわれています。
メルキゼデク神権の回復
メルキゼデク神権の回復は、一度の按手によって成されたものではありませんでした。
これについて、教会の出版物から引用します。
『1829年5月15日、バプテスマのヨハネが目の前に現れてバプテスマを施す権能を授けてくれたことを、ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリは証しています。
1838年のジョセフ・スミスの歴史記録によると、二人は当時、「聖霊の賜物を授けるための按手をする力はないが、これは将来……授けられる」とヨハネに告げられました。
この説明は、新約聖書においてバプテスマのヨハネが述べた、「悔改めのために、水で」弟子たちにバプテスマを施しているが、「〔自分〕よりも力のあるかた」が、「聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになる」であろうという言葉と重なります。
ジョセフとオリバーを聖任した後、バプテスマのヨハネは「自分は……ペテロとヤコブとヨハネの指示の下に働いている」と説明し、この3人はさらに大いなる権能の管理人であって、聖霊の賜物を授ける力は「ふさわしいときに……〔ジョセフたち〕に授けられ〔る〕」と告げました。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネがジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに確かに現れたという記述は数多くの記録に残っています。
ジョセフ・スミスに与えられた啓示では、主が「あなたがたのもとに遣わして、あなたがたを聖任し、あなたがたを使徒および〔主〕の名の特別な証人として確認し、またあなたがたの務めの鍵……をあなたがたに確認した」ペテロとヤコブとヨハネの訪れについて語られています。
ジョセフ・スミスがオリバー・カウドリに与えた祝福は1835年10月付で記録されており、その中で主は、オリバーが「長い間とどめておかれた人々、すなわち、メシヤの手からそれを受けた人々から聖なる神権を」受けたと告げておられます。
後年、数通の手紙において、オリバー・カウドリはこの神聖な出来事についてつづっています。そのうちの一通では、「ペテロを前に、さらに大いなる神権を受ける」に際して感じた畏敬の念について語っています。
この天からの現れがあった正確な日付は、現存する資料からは特定できません。
この示現の詳細を伝えるジョセフ自身の唯一の記録は、1842年付の手紙(現在教義と聖約128章として標準聖典に収められている)です。
この記録でジョセフは、「王国の鍵……を持っていると自ら宣言した、サスケハナ川沿いのサスケハナ郡ハーモニーとブルーム郡コールズビルの間の荒れ野におけるペテロとヤコブとヨハネの声」を聞いたと証しています。
現代の読者たちは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの現れた時期について、こうしたいくつかの記録から様々な結論を引き出しています。
その推測は、バプテスマのヨハネが現れた1829年5月15日の何週間か後といった早いものから、その数ヶ月後というものまで、様々です。』
マラキの預言
さて、第六回の中で天使モロナイがジョセフに現れ、神権の回復を告げたところまでお話ししました。
モロナイはあの時、さらにマラキ書の預言を語っていました。
『ジョセフ・スミスー歴史』より引用します。
『さらにまた、その方は第五節を次のように引用された。
「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤの手によってあなたがたに神権を現そう。」
また、その次の節を言葉を違えて引用された。
「彼は先祖に与えられた約束を子孫の心に植え、子孫の心はその先祖に向かうであろう。
そうでなければ、主の来臨の時に、全地はことごとく荒廃するであろう。」』
この中でいわれる『預言者エリヤ』について少し説明します。
エリヤは旧約聖書の『列王記』などに登場する預言者です。
天を閉じ、数年にわたり雨も露も降らせず、彼自身はからすによって養われたとあります。
やもめの子供を生き返らせ、天から火を呼んでバアルの預言者たちを打ち破り、死を味わうことなく火の車に乗って天へと上げられました。
マタイによる福音書第17章3節で記されているように、エリヤは同じく死を味わうことのなかったモーセとともに変貌の山に現れ、当時のペテロ、ヤコブ、ヨハネに神権の鍵を授けました。
そしてマラキは、このエリヤが末の日に再び天から遣わされることを預言したのです。
エリヤの再来
『1836年には、教会のカートランド神殿でジョセフ・スミスとオリバー・カウドリにエリヤが現れ、「先祖の心を子孫に、子孫の心を先祖に向けさせ、全地がのろいをもって打たれることのないようにする」ことを可能とする鍵、すなわち権能を与えました。
ジョセフ・スミスはノーブーにおいて、「エリヤの権能と召しは、皆さんがメルキゼデク神権の完全な啓示と儀式、力、エンダウメントの鍵を保有する権能を持つようにすること」であると説明しています。
教会の指導者はこの権能により、メシヤが御自分の神殿に来られる時の備えとして「イスラエルの家にメルキゼデク神権による結び固め」を施すことができます。
ジョセフ・スミスはこの回復された権能の下に働き、イリノイ州ノーブーにおいて神殿のエンダウメントと結び固めに儀式を紹介しました。これは、1840年代、その地で神殿が菅瀬する時に向けた準備でした。
生涯が終わりに近づいたころ、ジョセフ・スミスは、完全な神権の回復に伴う主の祝福について、大きな喜びを込めて語りました。
ジョセフはこの回復を、一つの出来事としてではなく、自分が預言者の働きを果たす中で起こる一連の出来事として説明しています。
神権は「ここにも少し、そこにも少しと、教えに教え、訓戒に訓戒を加えて」回復されたと、預言者は述べています。
「様々な天使たち」が現れるという奇跡が起こり、それぞれの天使が「それぞれの神権時代と権利、鍵、誉れ、尊厳と栄光、神権の力」を回復したのです。』
(『教会歴史のテーマ』より『メルキゼデク神権の回復』)
さいごに
マラキの預言の成就により、神権と神権の鍵は回復されました。
わたしたちは主の再臨の前に、福音を知らずに亡くなった先祖たちに対しても、さまざまな儀式を施すための術と権能を得たのです。
福音についての基本的なお話がひと段落つきましたので、次回はわたしたちの聖典のひとつであり、かつての教会の俗称にもなっていた『モルモン書』についてお話しします。
聞いてくださってありがとうございました。
またお会いしましょう。
おやすみなさい。
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